朝日新聞2月27日文化欄から

現在、加藤典洋著『テクストから遠く離れて』を読んでいる。この読書は積読を減らす作業であると同時に飽きがきているからなのだが、二月二十七日付けの朝日新聞文化欄文芸時評において評者加藤典洋が「生の一回性の感覚」という題で文学誌新潮の二ヶ月続きの座談会「大討論 小説と評論の環境問題/高橋源一郎+田中和生+東浩紀 小説のことは小説家にしかわからないのか?」を取り上げ、東浩紀に対する言及を行っている。
加藤氏は筒井康隆著『ダンシング・ヴァニティ』と映画『惑星ソラリス』(共に私は未読未鑑賞)を挙げて反復、死の反復によって、死の意味を感じさせるという(これは『惑星ソラリス』の場合。筒井の場合反復により、道化ることで、「生の一回生」の哀切な表現を言葉でやっと表現できると言うかのよう、らしい)。そして加藤は穂村弘の『短歌の友人』を引き合いに出す(私は短歌は恥ずかしながら読まない。もちろんこちらも未読。あえていうなら「文学の触覚」で穂村の作品に触れている。そんなもん)。上記の座談会では「文学」が何であるか誰も答えないが、穂村は(加藤はここで(短歌)といい直しているが)「私の人生はただ一回きりの、他人の人生とは決して交換できないものだ」という「生の一回性の感覚」ですと話を展開する。穂村は今橋愛という若い歌人の歌「たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう」を挙げる。この歌は「棒立ち」している。「棒立ち」とは想いと「うた」の間にレベル差がないこと。世界観、自己意識のフラット化の中で、「生の一回性」が何とかいきのびようとしている、のだそうだ。

これらから、加藤は東浩紀を現在の文学の問題をダイナミックに展開してきたと評価する。一方、東も「文学なんて関係ない」立場によって「棒立ち」化しているという。東の批評の「棒立ち」は加藤に言わせると(風景化あるいはキャラクター化)として受け止めると、明快だという。東の物語外の環境的読解によって「生の一回性」の先鋭的な試みを取り出すことでき、自然主義的読解は不徹底だという。そして加藤は東の『ゲーム的リアリズムの誕生』が筒井康隆に献じられ、そしてそれに呼応される筒井の『ダンシング・ヴァニティ』よって東の提案が有効性を証している、とまとめる。他の注目作品には諏訪哲史『りすん』青山真治『見返りキメラ』など。

そもそも私が現代日本の小説について考えるようになったきっかけはベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を読む演習の課題としてスタートしている。そこでアウラを知った(さっぱり理解できなかったが)。そしてここで「生の一回性」について述べられる。アウラも生の一回性の論議ではなかったか?ここで話が一周したか。

そのほか文化欄には芥川賞・直木賞の贈呈式の記事があり、その芥川賞受賞者でもある川上未映子が池田晶子賞を受賞したという小さな記事もある。ふむ、これによって川上未映子はこれによって今年賞金合計二百万を獲得したということか(記事によれば池田晶子賞賞金は百万円だ)。哲学を学んだという川上未映子が受賞したのは、喜ばしいことだけど、単純すぎやしないかと読んだこともないのにいってみる。そういえば諏訪哲史も哲学科出身だったような…。直木賞受賞者の桜庭一樹も東浩紀が論じているようだし…。

ちなみに今、ブコウスキーの短編も読んでいる。