迷子の警察音楽隊

『迷子の警察音楽隊』を観てきた。
エジプトの警察音楽隊がイスラエルに演奏の招待を受けるが手違いによって、演奏隊は目的地と一字違いの小さな町に迷いこみ、そこで一夜を過ごすこととなる。
エジプトとイスラエルの関係―パレスチナとイスラエルの関係、アラブとユダヤから容易に複雑なものだと推測できる*1
会話は英語でされるが、感情と共に発せられる時ヘブライ語、アラブ語が飛び交う。その言葉に警戒する者、その美しさに聞き惚れる者。どちらにしてもその会話の字幕のかぎかっこが、もどかしい。よくよく考えて見れば、この字幕によって、私たちはどの言葉も理解できる第三者になることが出来ていたわけだ。皮肉にも彼らが共通言語にしている英語も字幕で観ることになってしまうのだが。
この物語が希望を発見する物語には正直思えなかった。むしろ、人と人の関係性の断絶を思いしらされた。音楽隊員たちは一夜を無難に過ごすことに苦心、むしろその放棄にも見ようによって観れた。彼らは仲間と、身内を理解することでやっとなのだ。しかしそれは当然の話だ。それは自らの生活がそう物語っている。頭の中で皆が手を取り合っても構わないかもしれないが、現実には隣人の手さえ握りたくもないのだから。何だか話がそれているような感じがするのだが、そこで昨日の平行線の話になる。もし二つの平行線が私を挟み地平線まで伸びていたのなら、二つの平行線は地平線に向けて限りなく近づき、交わるかもしれないということ。それは鳥瞰図ではなく、地に足をつけなければみることの出来ない接近、交わりだ。何も背伸びすることもない、飛ぶこともない。………結局私はそうすることによって希望を持つということか。地に足をつけて希望を見出す。ひとたび頭を使えば地上を離れ限りなく続く平行線。平行線つまり文化の相対性を考えると、つなげればよいというわけではないんだが、しかし我ながらよくわからない考えだとも思う。

*1:しかし、それほど簡単な二項対立だけではないようだ。はてなのユダヤ人のキーワードにもあるようにアラブ諸国出身ユダヤ人に対する西欧出身のユダヤ人への差別など。ただアラブ諸国出身のユダヤ人はイスラエルにアラブ文化を紹介する役割を担ったようだ。