2018年4月30日/変身譚

「気が付くと(省略)既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。そうして懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」中島敦 著「山月記」より。

ふと、中島敦の山月記を出勤中に読んでいたところ、上述の引用部を読んで思わずため息が出てしまった。学校の授業を経験した後であれば「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が何たるか問われたことを思い出すものの、上述の一文のことは全く忘れていた。カフカの「変身」におけるグレゴリー=ザムザは自らが虫になったことを問わない一方、上述の主体である李徴は虎になったことを恐れながらも虎になった不条理を受け入れてしまっている。

今日はおそらく満月なのだが薄い雲が空を覆っているために拝むことができない。