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2015年10月26日~2015年11月1日

スエットに着替えパソコンを眺めていると首筋に何かが這っているようだった。半信半疑で首筋を二度叩くと、手の平にバラバラになった大きな蟻の死骸があった。思わず声を挙げるが、おそらく洗濯物を取り込んだ時、そのまま家に迎え入れたのだろう。

イスラム過激派から届いたビデオメッセージ。指導者は休戦を望み、その他の兵士たちは個人の特定を免れる為にガスマスクやら鉄仮面を帯び、傷ついた身体を晒していた。同情を誘う為の演出なのか、しかしその様相は得体のしれなさを感じさせ逆効果だった。

タオルケットと毛布では寒さから逃れる事は難しく、早朝に目を覚ましてしまう。外から銀杏のような匂いが届く。

鴨が川で身体を洗っている。

「超セレブ女性の日常サポート 高収入可能!」という貼紙を見掛ける。超セレブというのは、用法としては超兄貴とか、ウルトラマンとか、そんな言ったものだろうか。検索してみるとそれらしきサイトはあるものの、あくまで電話での対応という事らしい。「出会い系サイトではありません」との断りもある。思うにいまどきの超セレブは高齢で、色々と骨が折れるかもしれない。というような話をしていると同僚がネットで体験談を見つけたという。それを眺めてみたところ、全く面白い話では無かった。

満月だった。

小学校で教育実習を行っている。昼食は各クラスで給食を取る事になっていた。低学年のクラスに向かい教室に入るものの、担任は何も声を掛けてくれない。仕方無く空いている席に座ろうとするものの、「そこはユミちゃんの席だよ。」と児童にたしなめられてしまう。笑ってごまかし別の席に座に座り児童たちと話したところ、この後は児童たちが大切にしている丸い石に穴が空いたというので、その穴を防ぐべく樹脂を注入するのだという。果たしてこの石は何を意味するのか、答えは明かされない。

友人から電話があり近況について話した。とはいえ、さして代わり映えのしない毎日であり、報告する事は少なかった。

腹が減った。

農作業中に嵐に見舞われ、ビニールハウスに避難するのだが、しかし嵐は思いの外激しく、避難した皆でビニールを押さえるもののビニールで包まれてしまう。この為にビニールに空気を取り入れるよう穴を開けたのだ、リーダーらしき男が妻らしき女性にそう話している。気がつくと、その妻の膝の上で赤ん坊が大きな鳴き声を挙げ、女は顔を覗き込むのだった。

朝、雨が降った。

最後の一押しで満員電車に高校生が入り込んだ。高校生の腕には使い古したG-SHOCKが掛けられ、時刻が午前七時四十八分をまわった事を知らせる。

鏡の前で白髪を抜く。

お婆さんは朝早く山へ柴刈りに、その後は川へ洗濯に、こんなに忙しく何も起こらない昔話は無いし、お婆さんの退屈な日常など知ったところで胸は踊らず、話も弾まない。こんな事になったのは一月程遡る必要があった。いつも通り、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に向かった。お爺さんは山へ向かう時、川沿いに歩くのが常だった。昨日降った雨で少し水かさが増していた事に気が付かないお爺さんでは無い。何故ならお爺さんは柴刈りのプロフェッショナル、日本が誇る人物であり、国民栄誉賞受賞も今かと巷で叫ばれていた。これは毎日物語の要請に従い、雨の日も雪の日も柴刈りに向かっていた事が評価されての事だ。今日も柴を乾かす必要があるな、そんな事を考えていると、弘法も筆の誤り、ぬかるみに足を滑らせ、川に落ちてしまう。少年のころ川遊びは得意なお爺さんだっが、お爺さんという役目を長年演じ過ぎた為に、泳ぎ方を忘れ、そのまま溺れ死んでしまった。お爺さんは役目に忠実だった。それが評価されていた。しかしその為に命を落としてしまったのだ。皮肉な事である。他方、お婆さんは水かさが増して濁った水だと残念に思いながら、せっせと洗濯をしていた。すると川の上流からどんぶらこどんぶらこと何かが流れて来た事に気がついた。何度繰り返して来た事だろう、しかしあれは桃では無さそうだ。そういう時は何も無かった事にしなければならない。そういう決まりだった。しかし目の前を流れて来たのは柴刈りに向かったお爺さんだったものだから、慌てて腰まで川に浸かってお爺さんを引き上げた。既に事切れたお爺さんの膨れたお腹を押すと汚泥が口から溢れた。「可哀想に。」お婆さんは涙を流しながらお爺さんの瞼を閉じて、その死を悼んだのだった。その後、お爺さんは国民栄誉賞を受賞した。墓石には「柴刈りに生き、柴刈りの為に死んだお爺さん、ここに眠る。」とあり、墓前に柴が欠く事は無かったが、心無い者の悪戯により柴ごと燃やされ二度も荼毘に付されたりする内に、すっかり皆に忘れ去られてしまった。

床屋に行ったのだが、店主が趣味なのかテレビ東京の歌謡曲の番組を眺め始め、シャンソンのろくでなしやら森進一を真面目に聞いたのだが、退屈するというより新鮮な気分が多くを占めた。

曇天から陽が射し始めた。

帰り掛け、CDショップに寄るも目当てのものが見つからなかった。改札前の人波に仮装した若者を多く見掛けた。

吉田野乃子の Lotus を聴いている。ここ一年程、フリージャズを中心に扱ったブログを購読するようになり、そのなかでかなり好意的な評価を得ていたのがこの作品だった。自主制作という事で、本人にメールして購入したのだが、実際のところはSNS等で連絡して手に入れるようだ。昨今そういった環境から離れており、上記のブログで知れたのは幸いな事だった。送られて来た商品には自筆の送り状と父による勝手な全曲四行程の解説が付いており、解説にある家族に関する内容と相まって穏やかな気分になってしまうが、アルバム自体はイージーリスニングなものでは無い。師事しているのはネッド=ローゼンバーグ、ジョン=ゾーンだそうで、ネッド=ローゼンバーグは浅学故に知らないのだが、ジョン=ゾーンといえば前衛・多作な音楽家である。何度もアルバムを聴いているのだが、多重録音されたアルトサックスの反復と変調が何にも邪魔されずにただ聴ける事が非常に心地良く、日常に最適化されて狂った身体を解放してくれる。

ジムのモニターで西島秀俊が主演しているMOZUという映画の宣伝番組を眺める事になった。ドラマの枝葉末節まで読み込んだ人々がドラマの内容に関する問題に解答していた。

散歩に出掛ける。最近は半径五メートル程度のものしか眺める事が無く、遠くを眺める事が少なくなったと思う。枯葉が落ちた遊歩道を歩き、一部の紅葉を眺めたりした。公園の芝生で他愛なく遊ぶ若者、小さな子どもの一挙一動を嬉しそうに見守る家族、横を走り抜けるランナー。そういったものを見ながら、今の生活はどうにもなりそうにないと思った。