2015年8月3日~2015年8月9日

夜、台所の電気を点けていた為か、蝉が窓の外で鳴く。電池が切れかかったのか如く、鳴き声が弱まっていく。ここで鳴いている場合で無いだろう、何よりうるさい。窓を叩くと格子に止まっていた蝉はビビッと鳴き、飛び立った。

目の前に Juice=Juice のミュージックビデオをスマートフォンで眺めている女性がいる。

ストルガツキー兄弟の作品を手に入れようと古本屋に出向いたが少し値が張ったので遠慮してしまった。大抵、ここで買い逃す形になるのは知っているのだが…

吊革広告を眺めていると間違い探しの問題があった。答えが気になりスマートフォンでサイトにアクセスするもSNSのアカウントが無ければ先に進めない仕様になっていた。最早広告も人を選ぶ。仕方無くブラウザを閉じた。

駅を出ると陽が落ち、街並みの影の上に線形の連続した色の変化が表れ、黒い入道雲の影が一瞬光りを放った。

アルカジー&ボリス=ストルガツキーの神様はつらいを読み終える。これを原作としたアレクセイ=ゲルマン監督の神々のたそがれより嫌な余韻に浸らせてくれるのは意外な発見だった。

深夜に目を覚ますと、蝉のか細い鳴き声が聞こえ、いつしか途切れてしまった。

現状の政治的な言動―現実的、理想的、その他諸々の考えと共に見られるのは、自身が当事者だという考えである。この当事者性は東日本大震災後に誰もが被災者となってしまった事や、SNSで個人として意見を表明する事が容易になった為だろう。この当事者性の発見もしくは自覚は、結果としてその後の政局に影響を与える事になった。この事態にどうにも苛立ちを覚えるものの、何が原因なのかは答えを出せない。知識不足による無理解、罵詈雑言とも言える交渉、聞いてもいないのに表明される主義主張、または主義主張を表明しろという事にだろうか。そもそも『「引き受ける事などしたくないのだが、」これが現実なのだから、それに相対する為に必要な事なのだ。』とでも言う、「準備された」消極的な当事者性は机上の空論に過ぎないという事なのだろうか。

土岐麻子の Bittersweet を聴いている。四十代前後の女性の感情を描いた Beautiful day 、アナと雪の女王の Let it go のアンサーソングともいうべき Don't let it go が素晴らしい。

アレクセイ=ゲルマンの神々のたそがれについて調べていると名画座で過去の作品が上映される事を知った。どうやら彼は長い生涯の間に五つしか作品を残していないらしい。上映スケジュールを見ると全作品を観る事は難しそうだった。

この季節、浴衣姿の女性を見掛ける事も少なく無い。綺麗だと思う。概して無関係なのが悔やまれる。

アレクセイ=ゲルマンのフルスタリョフ、車を!とわが友イワン・ラプシンを観た。フルスタリョフ、車を!は誰が誰だかも何が起こっているかも判らず眠気に襲われた。眠気で視点の合わないスクリーンを眺めながら、昔の事が思いだされて来た。わが友イワン・ラプシンはハードボイルド的な要素があった為かそんな事態は避けられたのだが。

ジムのモニターにて高校野球を眺める。中越滝川第二だが序盤は一対一の攻防となり、その後どちらかがまた一点リードする形になった。この炎天下の午後、過酷な試合だと思う。

駅前に大きな荷物を背負った外国人の少女が二人立っていた。三十代の女性が何やら英語で話し掛けている。滞在先の主だろうか。少女の鞄にポーリッシュワールドスカウトとある。ガールスカウトとしてこの蒸し暑い日本を訪れたのだろう。二人は涼しげで美しいのだが、余りに無防備にも見えた。

神々はたそがれのパンフレットで、昨日観た映画の解説を眺めていたところ、「その後、主要な登場人物が粛清される運命にある事を示唆している。」とあり驚いた。しかしソ連邦の歴史にそこまで理解があるはずも無いのだ。