2015年7月22日~2015年7月26日

友人がアパートの草刈りに参加していると同年代の男性と親しくなった。彼はポジティブ心理学なるものを信奉しており、いざ話し始めると発言を解釈して「要するに自信が無いって事ですよね?」等と応え友人を苛立たせた。ある時、自宅に何人かの友人を呼び飲んでいると男性がポジティブ心理学のワークショップを提案した。カードに書かれた価値観―「真理」、「友情」、「仕事」等を互いに交換し、また拒みながら、最後に残ったカード三枚に序列をつけ、何故そのカードを残したのか説明するのだという。価値観が人間関係の中で相対的に表れる等良く出来た仕組みのように思われた。これは友人も認めるところだ。問題は型に嵌められる事を嫌う友人に、得意になってポジティブ心理学を援用しようとする男性の姿勢だろう。

木々の葉が風に揺れ陽が瞬き影が踊る。そんな風景を眺めていると、自身がこの風景の単なる一部であり、また一瞬の生でしかないのだと思い至り、寂寥だとか空しさだとか儚さを感じてしまう。そんな感情を忘れる為に、また再現する為に、学び、働き、遊んでいるのだろうか。

夕方、クリーニングに出していた背広を取り行くべく自宅を出る。蝉の鳴き声が住宅街に響く。路上に出た子供たちがバットを振り、自転車で駆ける。まだ陽は落ちていない。長靴を履いた少女はスーパーの前で何か独り言を呟きどこかに消えた。

揺れた電車に女性は当たり前のように親しい男性の肩を掴み態勢を持ち直す。態勢を崩して眠る男の隣にお腹の出た女性が座る。妊娠しているかは判らない。倒れ掛かる男性を嫌った女性は肩を除けて座り、アナウンスが始まると席を立った。

アメデオ=モディリアーニの首飾りの女を眺めていると、横に居た娘は「美術の教科書で見た事がある。」と家族に伝えていた。確かに美術の教科書の表紙に載っていた記憶がある。日本人が所蔵している事を今日初めて知ったのだ。隣に並ぶのはアンリ=マティスのばら色のドレスを着た婦人、ワシリー=カンディンスキーの三つの楕円。隣の部屋には文房具が主に並ぶ。鶏血印材、翠玉蟷螂筆架…仰々しい名称だと思う。

所蔵している文化財団をスマートフォンで調べると食品会社が母体となっている。庶民にとっての芸術とは、成功者のお零れを預かる事であり、また日々の憂さ晴らしでしか無い。むしろこのような鑑賞は過去のものとなりつつあり、今ではいつでも側に引き寄せられるデータであり、コミニュケーションの道具なのだろう。

ジムのモニターで花燃ゆを眺める。画面の端に高温注意報が流れる。物語のテロップに1864年とあり、その年の長州藩関連の出来事を確認してみると、下関戦争、禁門の変、第一次長州征伐、池田屋事件と続く。幕末のドラマは話題に絶えないと思う。

美術館で見掛けた家族について思い出している。美術館に家族で出掛ける事はどれほどの貴重なものなのだろう。俺が二十数年生きて偶然たどり着いた美術館に、少女は意図する事無く訪れる事になったのだ。少女の両親の姿を思い浮かべてみれば、特段語る事も無く、穏やかさを持ち合わせているように思われた。その平穏は平凡とも言い換えても良い。結局のところ、子どもの成長に必要なものは、ありふれた平穏、ありふれた愛情に満ちた生活なのだった。

日中、誰も居ない路上に出る。陽射しの強さに辟易する。エアコンの効いた部屋で見る夢は、暴力団員の背中に蹴りを入れた結果、中指を切り落とされるやら、スカイリムの新作に興じようとするものやら、混沌としている。

夕方、買い物で出掛けるため外に出ると生温い風が吹き、西の空が茜色に染まっていた。子どもを自転車に乗せた中年の男性が語り掛ける。「プールはどうだった?」「冷たかった。」少女が応える。「でも、すぐに温かくなって来た。」少年が応える。自転車は目の前を横切って行く。目の前を洗濯カゴに衣類を入れた女性がサンダルでたどたどしく進む。