浮雲

二葉亭四迷著『浮雲』を読んだ。
本書は言文一致体で書かれた近代日本小説の始まりとして知られるのは誰もが学校の授業で習い知っている。実際、読み勧めると軽妙な語り手が存在し物語の進行を務めており、これは戯作と呼ばれる通俗小説の影響だと言う。
さて本書を読んだのは加藤典洋「さようなら、ゴジラたち」で言及されていたのがきっかけである。「ゴジラ」では芹沢博士・尾形・山根恵美子の三角関係がゴジラによる東京の破壊と共に進展、芹沢博士の死によって解消される。加藤はこの三角関係を、本書を原型として日本の近代小説に求め、夏目漱石の諸作品から村上春樹「ノルウェイの森」まで残響をひびかせていると指摘する。本書では主人公である内海文三・従妹であるお勢・元同僚の本多昇の三角関係が描かれており、それぞれ三人が、日本とその時代―明治維新後の価値観を表しているという。まず主人公の内海文三は名前の「内」が示す通り、内向的な知識人タイプの官吏である*1。そして物語早々、上司に媚を売る事を潔しとせず訳も無く首を言い渡される。一方、内海文三の元同僚の本多昇は名前の「昇」が示す通り、上司にも媚を売り立身出世を着実にしていく。内海文三とほぼ許嫁に近い関係にあったお勢は名前の「勢」が示す通り、「時勢」―丸山眞男が指摘する日本の一般社会の無意識―を表している。過去の価値観が否定され、新しい外来の価値観がもてはやされる明治という時代の端境期で、少しでも深く考えようとし懐疑に陥る内向的な知識人タイプの内海文三、出世を目指す外向的な実務者タイプの本多昇が体現する二つの価値観がぶつかり合い一方から他方へ軸足を移す。無意識の人であるお勢は、内海文三から本多昇へ心を移していく。この三角関係を上述した作品に当て嵌めれば、

という事になるのだろう。内容を鑑みれば「ノルウェイの森」を当て嵌める事に違和感を憶えるものの、完結しなかった本書の創作メモには内海文三の発狂する案が残されており、また「ゴジラデストロイア」に於いて山根恵美子の傍に尾形の姿が見当たらない事を考えれば、ここで挙げた作品が「同じ」三角関係を扱ったものである事が判る。

本書を読めば、内海が無職となりお勢と本多の仲に悶々とし、時に癇癪を起こしたりしている。どう考えても結婚するなら本多昇だろうと思いつつ、その軽薄さもまた面白く無い。三角関係という限られた関係性に於いて、三者に選択の余地が無くなる事が根本的な不幸なのでは無いだろうか。物語は上述の通り未完で終わるが、語り手の存在が物語の前半に弾みをつける。その後、語り手の存在が姿を消し、内海の内省的な独白が続くという体裁になっている。

浮雲

浮雲

*1:名前の繋がりで言えば「裸者と裸者」等、応化戦争記シリーズで知られる打海文三ペンネームは本書の主人公が由来だろう。