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2015年4月12日〜2015年4月18日

誤ってスパークリングワインを買ってしまう。炭酸は苦手なのだが、これはこれで美味い。

公園では遅めの花見が開かれている。桜は散ったが、新緑が鮮やかだと思う。

Instagramが開かない。

コタツ布団を洗い外に出して干す。

喉が痛い。風邪をひいたのかもしれない。

コロロギ岳から木星トロヤへ。時間を一次元として三次元の空間に干渉する人間。空間を一次元とし三次元の時間に干渉するカイアク。非常にわかりやすい例えである。

カレーを久々に作ったところ、それなりに上手くいった。以前から気づいていたが問題は水の量なのだ。とはいえ所詮百円カレールウのカレーであり味に差は表れない。

欲望という名の電車を観た。概要は知っていたものの登場早々どうにもヴィヴィアン=リー演じるブランチの様子がただならない。マーロン=ブランドのろくでなし振りも良い。

風と共に去りぬを観た。南部の栄華が風と共に去ったいうタイトルの意を初めて知る。しかし聞いてはいたがヴィヴィアン=リー演じるスカーレット=オハラの窮地に追い込まれた末の「明日考えましょう」という台詞には笑ってしまう。そう、人のやる事は一晩休ませればそれなりに解決するようなものなのだ。状況は常に動き、人の心もすぐに移ろう。

診察室からフリルの付いた小さな姉妹が出て来る。思わず笑ってしまう愛らしさだが、それも親の余裕が無ければこうはいかない。診察を終え薬局に出向くと先程の姉妹がソファーに座ってウエハースを頬張っている。手持ち無沙汰なので本棚から銀の匙の一巻を取り出して読む。夢も無いなりに親元を離れそれなりに野望を持った少年がどのように成長するのだろう、そんな事を思いながら本を本棚に戻し薬剤師から処方箋の説明を受ける。本棚にサンデーが置いてあったから薬剤師の趣味なのだろう。

スター・ウォーズで描かれる牧歌的な風景は風と共に去りぬで描かれた南部をモチーフにしているのでは。草原、従者は奴隷から機械人形に変わって。そこから露わになるのはどんなに高度な技術を持っても人間は人間だと言う事だが、よく考えてみるとあの映画は人間と機械の他に異星人もいるのだった。

顔に美顔ローラーを使っている中年女性を見掛けた。そういえば、すごいよ‼︎マサルさんで美顔ローラなんて歌があったよなぁ。更に調べてみるとBase Ball BearにLOVE MATHEMATICSという曲があるが、すごいよ‼︎マサルさんにも青春マスマティックスなんてあったが…これは藪蛇だよなぁ。

同僚と長く話し込んでいると先輩社員からその辺りにして置けと言う言葉を頂く。なるほど、引き際というのはとても大切だと思う。思えばレッド=バトラーも引き際と確固たる決断力を見せていた。

仕事に対する苛立ちを分析した結果、やはり事務所内での業務変更とその直属の上司に起因しているであろう事が判る。問題はそれに対して面白い対策が立たない事だろう。幸か不幸か状況は推移し、現状のやり方を続けるのが無難な様に思える。もちろん、そのやり方も状況が変わるなか自然と落ち着いたものである。

今までの成功が呆気無く崩れ去る事を想定しながら成功について語る。

連日の雨から雲一つ無き快晴。生活を変えようと思った。

Tigran Hamasyan の音楽に異国情緒を見出すのは容易い。空間的な精神性のなかで様々な流れに身を任せているような気分になる。

どこぞかの景品で貰ったタンブラーを持ち出して使う。中身は水。

空白の時間は眠りに変わる。

何かしら夢を見てはいるのだが、仕事絡みの内容と朝日の眩しさに忘れてしまう。

女子高生がフレグランスを振り撒きながら髪を梳かす。

ふと仕事で女性の平仮名で綴られた名前を見掛け、かなり前、幼稚園の頃、同じ名前の同級生がいたのを思い出す。

作業着を着た老人が何をする訳でも無く窓越しに車の往来を眺めている。気がつくと老人はその場から姿を消していた。

Art Blakey & Jazz Messengers の So Tired が楽しい。

髪を鮮やかに染め上げた美容師たちが自転車に空気を入れながら談笑している。

ゴッド・ファーザーを観る。シチリアのシーンに出てくるシモネッタ嬢がセクシーだった。

脚を引き摺った人を多く見掛ける。今まで意識していなかったのだろうか。

上司に客先へ連れられ担当者と名刺交換をする。どういう風の吹き回しなのだろうか。今更と呆れるし、腹立たしい。「こういう事も必要でしょう?」それを一年間させなかったのは誰なのか?徹底的に追及してやりたい衝動に駆られる。

類家心平 4 Piece Band の演奏で感情の起伏を疾走する。

喫茶店のウィンドウから往来を眺めていると決まった時間にスプレーで落書きされたトラックが視界を横切る。

日常の掛け替えの無さとは、代わりがいないという意味だけでは無い。つまらない日常の全てを引き受け無ければならないという、人間存在そのものを指す。

母から幼稚園の頃の写真をメールで貰う。頬がはちきれんばかりに膨らんだ顔を見て笑い、幼い頃は母親に似て、今となっては頭蓋骨が伸び親戚からは父親に似ていると言われる始末。

会社の飲み会の買い出しに出掛け雨に降られる。雨に濡れながら金の話になる。解雇されれば無職の後も食いつなげるなという話で会話が結ばれる。

近い将来なり遠い将来なりがあるのだとしても、結局いつ現れるともしれない死という物差しでしか人生を測れないのであれば、何も期待する必要は無くなり、死が紛れも無い現実である以上、人生とは常にその他の出来事でしか無い。

朝の連続テレビ小説大河ドラマを眺める。土屋太鳳は微笑ましく、清水富美加も出ているとは知らず。大河ドラマは幕末の長州を舞台にしたものだが、これは今の政権与党としては文句もあるまい等と考えてしまうところがつまらない。サウナで彼氏や妻の浮気を調査する外国番組を眺めた。浮気しているシーンが流れると客席から「えー」と声が流れるのは滑稽としか言いようが無い。

卓球場を訪れると同じ住宅街に住んでいた一歳下の男性が場内の端に座っているのを見掛ける。両脚は膝下から、そして右腕が無くなっている。髪も消えかさついた肌をしているが印象的だった眉毛は残っている。声を掛けると「お久しぶりです。ええ、こんな姿になったのは交通事故に遭ってしまったからなんです。しょうがない事だったんです。でもなんでしょうね、人生ってこういうものなんでしょうか?」その問いに応える事は出来そうに無く、俺は一人で動けない彼の身体を抱きしめ涙が流れる頬に額をあて「頑張っている。生きろよ。」等と言った。