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2015年3月11日

雑記(2014.3.11~)

PCのディスプレイを眺め、今日が、あの地震から四年目の日だという事を、俺だけでなく他人も意識している事を通じて、実感する。

Jaco Pastorius を聴く。鼻水が止まらない。花粉症かもしれない。

目の前に立つ中年の男性の鼻毛が飛び出している。面白い事に、この男性は毛抜用のピンセットを手に持ち、顎髭をさり気なく抜いている。もしかしたら、飛び出した鼻毛はお洒落なのかもしれず、でなければピンセットで抜くべきは鼻毛だ。

なぜなのか、髪に大きな糸くずを載せた男性がいる。ここまで来ると、全ては鏡であり、己を省みろと言わている気分になる。

エスカレーターに並び、そして昇り、改札を抜ける。

出社するとほとんど使っていないメーラーに受信がある。配置変換のあった同僚から今度受けなければならないテストの対策資料が送られて来た。返信にこちらも何か変化などあれば連絡する旨を伝える。

朝の朝礼で上司が東日本大震災に触れる。短いスピーチに関わらずメモ用紙が必要なのか疑問に思う。

コピー機の前にいると上司から何かあったかと尋ねられる。昨日の今日で何が起きると言うのだろう?

ふと上司が何か俺に対して策略を練っているのでは無いかと考えた。そして愉快な気持ちになる。妄想に過ぎない。全ての物事を因果関係で捉えたがるのは仕方が無い。カント曰く空間と時間は人間のアプリオリな形式なのだ。しかし久しぶりにアプリオリなんて言葉を使って、よく考えれば現象学とかもそうだが、少し気恥ずかしく、けれども自分の考え方の一つになっているのだと実感する。但し、思考が発展するというより、その枠内で理解しようとする、窮屈なもののようにも思う。

上司に何か謀っているのか尋ねてみるも「何も無い」という。それはそうだろう。

鼻をかみすぎてティッシュが無くなり摩擦で鼻の下が熱い。

何も起きない。起こさなければ当然の事だ。

さて、とりあえず一年間休みなく毎日を記録して来た。達成感というよりやっと終われるという気持ちが大きい。二十代後半の日常を切り取る事は少し出来ただろう。流れるものを留めた意味は後で判れば良い。ここに記したものが、意識して向き合えたものであり、今後これを読めば、自身の鼻を明かす事が出来るというものである。大抵、過去は未来の自分よりも優秀に見え、人は愚かになっていく。こんな文章も不要のようにも感じるのだが、初める時は自由に、終わりにはけじめをつける、その方が気分は変わるものだと思う。

ねごとのVISIONを聴く。眩しいと思う。

去年は中学の同級生たちが軒並み結婚ばかりして、挙句の果てに衆議院選挙に出た奴まで現れ、俺は何をやっているのだと思ったが、よくよく考えて見ると、俺は俺で好き勝手にここまで適当にやって来たのだなと思い笑えてきた。Optimistic なんて暗い曲を歌ったのは Radiohead だったが、曲を聴きながら歌詞を見たら気分が沈んだ。

今日について、何かを語るべきなのかもしれないが、今までも大体書いてきたし、去年の三月十一日から今日の三月十一日を目指して、一年間一日も欠かさないという頑固な事をしたのは、忘れる気も、忘れる事も出来ないのだという、意志の表明くらいにはなっているのでは無いか。

一日の何かを記す事を辞めた時間で何をしようか、本を読む位しか思いつかないが、気分が向いたら書くというような形になるのでは無いか。