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2015年3月4日

ねごとのVISIONを聴く。年末のライブで格好良かったガールズバンド。音楽好きの友人はギターの女性のDJを聴きに行くほど首ったけ。聴いてみると一曲一曲に色んなアイディアが詰まって元気が良い。耳許で音楽が奏でられ、目の前を歩く小学生の女の子が濡れた路面を駆け出し、追い越して行く女子高生からシャンプーの匂いが届く。

弓道していた頃、半目でいろと言われていた。おそらく武道一般に言われる事だろう。落ち着いているから半目になるのでは無く、半目になる事で心を落ち着かせる。体裁を整える事によって心に作用させるという訳だ。仕事中、目をギラギラさせて上司を威嚇している場合では無い。半目は慈眼とも言い、良く仏様のような眼差しで弓を引けと言われたものだった。確かに菩薩は半目もしくは目を瞑っているが、不動明王は目を大きく見開いている。視線で感情と行動が表現されているのだ。これからは半目だな。

半目で仕事。しかしどうやら俺は相手を不必要に挑発してしまう傾向があるらしい。少し反省する。半目に言葉遣いも気をつけなければ。

首の座っていない赤ん坊が前を見るべく抱っこされたまま仰け反った。なかなか侮れない。

引き続きねごとのVISIONを聴く。最後まで趣向を凝らし姿勢が振れない。特に最後の一曲のキーボードが良い感じに鳴っている。

平野啓一郎の透明な迷宮を再読していると、分人主義三部作の三作目にあたるかたちだけの愛の片脚を失ったヒロインの事を思い出していた。彼女が片脚を結果的に失った理由には元恋人との関係があった訳なのだが、その関係性にある間、もちろん彼女は片脚を失う等とは考えない、そんな事は当然の事である。普通、生活していて、その先の事は、重大な結果になればなるほど、誰も想像出来ないものである。結果としてそれはあの時のあの行動等と考えて、因果関係を結び反省するのだが、しかしそれはやはり想像出来ないものであり、一定の傾向性を示すサンプルがなければ無意味であり、片脚を失うような経験を何度もするのは無理で、いつも個別具体的なはずなのだ。それでもやはり人は因果関係のなかでしか物事を考える事は出来ないのだから、その行動を責め、それが他人であれば、嫌いな言葉であるもののすっかり思考に馴染んでしまった、自己責任だと言う評価を下す。それを避けようとした場合、運命だとか宿命だとか、宗教的で詩的な言葉に回収されてしまう。とりあえず運命だとか宿命と言った言葉の重力・磁力・呪力から離れる為に、ここでは不可分なものとする。別に不可分なもので無くても良い、ゴジラ・ペドロ・スーパーウルトラデラックスハンチング帽・堀北真希でも何でも良い。さて不可分なものは操作が出来ず、言葉で表現出来ないものである。そこで分割可能で言葉に出来る日常生活に着目するしかない。そこで何とか足掻き、不可分なものに抵抗しなければならない。これはどんな平穏な世界であろうが、過酷な世界であろうが誰も条件が変わらなそうである。漫画ベルセルクの主人公ガッツの如く因果律に足掻くのである。しかし足掻きながら大抵の人はこう思う。こんな事に意味があるのだろうか、正にこう足掻いている事こそ、不可分なものの思いのままになっているのでは無いか。この心境は漫画封神演義における元始天尊の心境と一致するだろう。ここで一つ前提になるのは言葉で記述可能な日常の世界での行動は、不可分なものに影響が可能だという事である。想像が出来ないにも関わらず、しかし日常生活で影響出来る存在とは矛盾している。結局のところ自己責任という世界に落ち着きつつあるのだが、薄々感じつつあるのは、想像出来ない未来と日常生活での抵抗は実のところ両立するという事である。ただ、不可分なものの説明が出来ておらず、自己責任の世界に分がありそうであるが、ではあなたはこの事態を想像出来たのかと尋ねてみよう。強ち自信を持って想像出来たとは応えてくれそうに無い。あるとすれば傾向だとか統計だとか、ちょっとした方向性くらいを示せる程度だろう。もうこのくらい語れば良い気がしているし、問いの立て方が間違っていたという事で納得出来ている。しかし不可分なものに何とか接近してみよう。不可分なものは無数の条件であり、日常生活から引けるくじである。どれだけ引いても良いし同時に何本でも引いても良いし引かなくても良いしいつ引いても良い。但し問題があって、自分でいつどこで何本引いたか引かなかったかもわからないくじである。ちなみに俺は宝くじは買わない主義である。但し、過去に何度か買った事はある。しかしこういう事を考えるのは小学生六年生くらいで辞めておきたいものだなと思う。