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『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門』

読書

河本英夫著『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門』を読んだ。
本書のキーワードは「少年」である。「少年」は何かを見つけ、のめり込む。それに飽きると、また何かを見つけ、のめり込む。「少年」はこれを繰り返している。この繰り返しは自己生成とリセットであり、個性と創造性となって現れる。本書は寺田寅彦、アンリ=マティス坂口安吾を対象として、病跡学の観点からこの個性と創造性を分析したものである。

私たちは日常の物事に習熟し、手続き化する事によって生産性を向上させる。他方、技術的な革新によって新たな枠組みを創り出し、生産性を向上する事も求められている。本書はより後者に重きを置くものになるのかもしれないが、下記の引用にある通り、技術革新による生産性の向上は結果でしか無く、その過程の形成こそ目的となる。

著者の一般読者に向けたオートポイエーシスに関する著作を何冊か読んで来たなか、本書は著者の個性と格言的な文章が色濃く出ている。特に格言的な言葉は、今までの著作に無かったものであり、驚きつつも面白く読んだ。以下は特に面白く読んだ部分を引用したものであり、本書の感想の結びとする。

だが年がら年中、女体は性的魅力を発散していたり、母性を発揮したりするものではない。その手前にそれじたいで女体であることの不思議な快がある。男がこれを見ようとすると、簡単には見えない。電車で前の席に座っているふくよかな女性を見て、性的魅力を括弧入れして、それとして女体であることの不思議さを感じ取ろうとすると、かなり努力がいる。それはしばしば身体の動きのなかに感じ取れるが、動きの感触が相当に男とは異なっている。現象学者であれば、一切の機能的な見方を括弧入れする必要がある。性的魅力も、性選択的な機能性にいまだ制約されている。そうした機能性さえ括弧入れし、なおそれじたいの存在の喜びに五感を届かせようとすると、容易ではない。そのためには練習も必要である。ただし電車の真向かいの女性に、こうした現象学的還元をほどこしたまなざしを向ける場合には、練習がかなり進んだ後にした方が良いと思う。そうでなければ、真向かいから訝しげな、あるいは敵意のまなざしが返されることになる。

こうした場面で産物や作品の意味合いが変わってくる。プロセスの継続から見れば、産物や作品はプロセスの外に排出されるのだから、それは糞のようなものである。たとえば真珠貝のなかに蓄積してくる真珠が、プロセスから排出されたものなら、それは糞である。それなりの大きな糞を集めてつなぎ胸にかけている女性や、大きめの糞を買い入れて両耳から垂らしている女性がいるが、糞にも人間の眼には美しく見えるものがあるということであって、糞であることには違いがない。

類似したことは、カフカの『城』に出てくる。主人公は、仕事を求めて城に近づこうとする。簡単にはいかず、いろいろと伝手をもとめてあがく。それでもうまくいかない。うまくいかないので、ますますあがく。城に接近しようといろいろ試みるが、気が付けば城の周りをぐるぐると廻っているだけである。この小説は、進行から見て、途中から終わることができないと感じられる。そしてその予感通り、終わることができないまま未完に終わる。
こうしたことはなにか緊急事態のように思えるし、どこか悲惨さや否応のなさ、やむをえなさを感じさせる。しかし人生には、いくぶんかこうした面があり、それは生きていることそのものに含まれるどうしようもなさの一面である。こうしたどうしようもなさを積極的に引き受けると覚悟を決め、それにふさわしい言葉で言い換えれば、生の「かけがえのなさ」ということになる。生命の基本的なところには、こうした否応のない反復が含まれており、たとえば毎日、毎日の暮らしでも、ほぼ同じように朝、薄いコーヒーを飲み、新聞を読み、そしておもむろにディスプレイを立ち上げてその日一日を思い描くのである。毎日の日常は、およそ反復であり、「暮らし」という字は、どこか「墓」という字に似ている。