2014年7月19日

同僚の女性がおもむろに声を挙げた。「来週、母の誕生日だ。」「へー、そうなんだ?」「ええ、何も考えて無かった。」「誕生日かぁ。」ふと考える。「祝って貰った記憶が無いな。」「いや、祝って貰うというか、祝ってあげるのが大事だと思うんです。」「ああ、そうだね、本当にその通りだね。」時たま正論に流れる彼女の指摘を聞きながら何だか自分が寂しい人のように思えてきた。確かに誰かを祝わず、祝って貰おうというのは都合が良すぎる。実際のところ、それほど誕生日が重要だとも思っておらず、SNSを介して行われる、無数の社交辞令には辟易している。そこで気がつく。俺はその人を大切に思う気持ちがあれば、それは相手に届くものだと信じているという事に。もちろんこれは日常の中で常に気持ちを伝えているという事が前提だ。とはいえこれは気恥ずかしい、青臭い考えだと思う。

中央線快速電車。スマートフォンを眺めていると初老の男性の手が当たり落ちる。頭を下げる老人。これは仕方の無い事だ。俺はスマートフォンを床から取り上げる。ふと気がつくと金髪に髪を染め上げた若い男女が横に立っている。女性はうなだれ、男性が声を掛け、寄りかかっている優先席の壁の上から、座り眠る女性の頭に肘を冗談っぽく突き出した。「やめてよ」と小声で言う女性を見ると妊娠している。細身の上、前屈みになっていたから気がつかなったのだ。「あと十分位なら立っていても平気だと思う。」優先席に眠る太った男が突然目覚め、目の前に立つ女性に席を譲る。それを見た二人は顔を見合わせる。男性は「もっと腹が大きくならないとダメだ」と苦笑いをうかべている。俺は思う。結局のところ、要求しなければ何も手に入らない。そして俺も見て見ぬ振りをしているのだと。そうこうしているうちに女性のお腹に気がついた女性が席を譲った。電車が停まると女性はお腹を抱えるようにして立ち上がる。男性はスマートフォンから顔を上げ、女性が電車から降りる直前まで電車から降りようとしなかった。俺は人を見た目で判断する事を厭わない。ヤンキー然とした夫婦も苦手だ。しかしどうだろう、彼等がこの電車でこんな状況を経験する必要があっただろうか?俺は全く必要無いと思う。辺りは立川を過ぎてから暗闇に包まれた。街頭の光が目の前を通り過ぎて行く。

大月駅に着いた。ここで富士急行線に乗り換えれば富士山、富士急ハイランド河口湖方面に向かえるらしい。長時間電車に乗っていたので煙草が恋しくなる。到着した電車に乗り込む。固い座席、ボックス席に散らばった人々。電車の中では丸山眞男を評論集を読み続けている。イヤフォンに流れる音楽と共に耳が気圧の変化を捉え順応しようとしていく。

無人駅を降り、友人を待つ。暗闇。山の上に灯る建物の光。煙草の煙が目に染みる。友人がやってきた。「煙草吸うんだっけ?」「うん、だいぶ前からね」適当な会話をしながら畳の上で眠る。

早朝。ベランダに出る。まだ陽は出ていない。トーストを食べ友人のロードバイクを借り、出掛ける。ジムでエアロバイクは漕いでいるものの、久しぶりの自転車の運転に緊張する。タイヤを路上の溝に噛み合わせないようレクチャーは受けたが、山路を走りながらヒヤヒヤする。目指すは禅宗の寺だ。坂道を駆け上がる。友人のシャツの裾が風にはためく。山は霧に覆われている。

寺で堂内作法と坐禅のレクチャーを受ける。周りの人への配慮について言われるのだが、なるほど、実際に堂内で坐禅に取り組んでみると、微かな動きが気になってしょうがない。身体は思い通りに動かず、自意識は集中の邪魔にしかならない。

電車を待つ。向かいのホームに襟足の長い男と坊主の男が座っている。一日中動き回って疲れた身体をベンチに預け目を瞑る。時計は午後十九時を指している。特急電車が通り抜け、駅のホームを揺らす。帰りは電車賃を浮かせる為、京王線を使おうと思っている。

高尾駅にて京王線に乗り換え、北野駅にて特急電車に乗り換える。飛田給にてサッカー観戦帰りの乗客が乗車する。隣に座っている大学生のサークル帰りの男女が初々しい。

新宿駅にて大勢のサッカーサポーターの人混みに紛れながら、独り戻ってきたのだなとサバサバとした心持ちになる。