2014年6月28日

雨戸を開く。網戸を閉め部屋に風を通す。夜の暗闇は朝にあばかれて行く。空を覆った雲は地上の光に照らされ、朧げに姿を晒す。耳栓をして布団に横になる。雨の音と部屋に入る湿気を帯びた風からタオルケットで身体を守る。

目を閉じたまま耳栓越しに外の気配を伺う。暗闇のなか瞼を幾筋の血管が光に照らさら葉脈の如く明滅する。意識は自意識を形作り、布団に横になる身体を持て余す。裸の女が幾重にも男と絡まり続ける昨夜見続けたアダルトビデオの残滓。カーテンの裾から外を眺めれば雨、雨樋を満たして零れ落ちる滴がアパートの外壁とアスファルトを打ち続ける。

生活のリズムを形作る為に本を開く。文字を追う早さは意識の早さであり、等身大の生活の早さを構成する。また身体に伴う早さに引きずられた精神は磨耗する。またその逆もあり得る。そこに調節を加えるのが本を読む事に他ならない。

河本英夫「〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門」より引用。「だが年がら年中、女体は性的魅力を発散していたり、母性を発揮したりするものではない。その手前にそれじたいで女体であることの不思議な快がある。男がこれを見ようとすると、簡単には見えない。電車で前の席に座っているふくよかな女性を見て、性的魅力を括弧入れして、それとして女体であることの不思議さを感じ取ろうとすると、かなり努力がいる。それはしばしば身体の動きのなかに感じ取れるが、動きの感触が相当に男とは異なっている。現象学者であれば、一切の機能的な見方を括弧入れする必要がある。性的魅力も、性選択的な機能性にいまだ制約されている。そうした機能性さえ括弧入れし、なおそれじたいの存在の喜びに五感を届かせようとすると、容易ではない。そのためには練習も必要である。ただし電車の真向かいの女性に、こうした現象学的還元をほどこしたまなざしを向ける場合には、練習がかなり進んだ後にした方が良いと思う。そうでなければ、真向かいから訝しげな、あるいは敵意のまなざしが返されることになる。」外が白みはじめ雨音が消えた。

レンタルショップで「モスラ」を借りようとするも無く、昭和ゴジラがその場を埋めていた。アメリカ版ゴジラの公開に合わせたものなのだろう。仕方無くその場を後にし、スーパーに寄る。夕方のため人も多い。若い男女が買い物する姿に生活感を垣間見る。そんな視線を向ける自分を笑って誤魔化す。

雨戸越しに雨の落ちる音が聞こえる。ネットで本で引用されるマティスの絵画を検索する。ピアノレッスンなる絵画の緑が印象的である。