2014年5月20日

姫は循環であり、姫は大きくも小さくもなり、姫は植物であり、命である。どこかの野原、膝丈程も無い小さな女性が朝焼けに照らされながら立ち尽くす。姫は植物であり、命であったから、その身を種子に変え、何処かに流れ、そしてまた何処かから還ってくる。姫は循環でもあったから、恒常性の中では永遠だった。映像が切り替わる。年上の女性たちとどこかの団地で会話。どうやら神奈川らしい。時が流れて電車の中、俺は大学生位の年齢なのだろうか、黒のジャケットに紺のパンツを履き、スマートフォンを眺めている。すると見知らぬ二十歳位の女性の声を掛けられる。「母から聴いています」と。あのときの女性たちの娘なのだ。彼女の肩に遠慮無く手をまわし会話をしていると「その人は誰?」と以前の彼女が俺の前に姿を現した。俺は水を差され気分が萎えてしまう。

早めに寝れば早めに起きる。早朝の時間を弄ぶ。中島哲也が作成したCMを眺める。六月には「渇き。」が劇場にて公開される。深町秋生原作「はてしなき渇き」が面白かったので期待している。映画でいえばアメリカ版ゴジラも今夏公開。小説なら「天冥の標」の新刊が今週刊行。今後の楽しみを挙げればこれ位だろうか。他方、仕事では、業務支援による異動の可能性が高まっている。どう転がっても腹立たしい。GRAPEVINE「坂の途中」が流れる。歌詞は大抵気にしていないが、この詩はかなり気に入っている。以下引用。「目線を合わせるだけ無駄な事だと 明日を見つめるフリして立ち止まっていた 坂の途中 思い上がっていく 浅ましい光に満ちる」。

公園で大学生がバスケットに興じている。彼らはベンチに座るサラリーマンを見て何を思うだろう。「ああはなりたくない」とか「卒業すればいずれああなる」だろうか?どうにか今からもがけば「こうなる」事は無いのかもしれない。それにしても生き方を一年やそこらで選ぶ事はままならない。但し、学生生活、もしくはそれ以前から自分のやる事が決めている、明確な人々は総じてそれなりの事をしているようにも思う。それが取り敢えずの答え、というより現実だろうか。

帰りにジョジョリオンの新刊を買う。この楽しみは忘れてしまっていた。読んでみるとやはり宿命とか宿業といったものが満ちている。主人公は記憶喪失状態だが、彼が「俺は誰だ、何なんだ?」と叫ぶ姿は悲痛ですらあり、それ無くしては生きられないとも言うべき迫真の問いである。死を前にした時、これは東日本大震災後の理不尽な死の現実感を前提に、誰もが希求しているのでないか。自分が何者であるか、あったかこそ、生きる、生きた意味であると。確かに名もなき死体はただの死体でしかない。とすれば自らを引き受ける事自体が宿命やら宿業である。それは日常であり生活そのものだ…等と考えるのだが、突然誰かに「お前は誰だ」と尋ねられた時、一般常識的に自らの名前を答えつつ、その問いの深みに嵌りそうな危うさを感じている。おそらくその危うさを引き受けているのはヒロインである。