2014年3月26日

沖縄の浜辺にいた。海水浴場の前には自衛隊の基地があり、建物に横断幕が連ねている。「日本の最前線基地」「No War」。自衛隊の基地にこの横断幕が許されるのだろうか、自衛隊も一筋縄でいかないのかもしれない。海水浴場に入ると誰も海に浸かっていない。案内人はいまの海は危険で入る事が出来ないという。浜辺の急斜面には並ぶ水着姿の人々。スクリーンを海に見立てた映画館の客席のようだ。海に入れないなら仕方ないと砂浜から引き上げていく人々。それを見守る俺。もう一人の俺は小学生だ。女性校長の室内をいつからか、ずっと掃除してきたらしい。それが今日終わる。校長の引き出しと金庫の埃を拭き取ると女性校長に掃除が終わった事を告げる。労いの言葉の後、あなたの希望は?と校長は脚を組み直し尋ねる。そんなものは気にも留めていなかったと応える。女性は笑いながら、そうだけど、何もないの?と尋ね返すのだった。

家を出ると駅に向かう女性が裸の桜を見上げている。アパート前に並んだ桜の蕾に赤み。開花も間も無いだろう。マスクするのを忘れていた事に気がつき鞄からマスクを取り出す。

マフラーはもういらない。喫茶店から路上の女性たちを眺めながら思い出す。ドストエフスキー翻訳者で知られる亀山郁夫がロシアの識者に対しインタビューしたTV番組だ。そこで識者たちは「ロシアに民主主義は無い。よってそれまでの間、プーチン、メドベージェフによる体制は必要とされる。」と。おそらく実際的な考えと理想の間で揺れた上での答えだったろう。そのTV番組の放送から数年、メドベージェフに代わってプーチンが再登場した。民主主義を手に入れるまでの代替はいつまで必要とされるのか?ウクライナのクリミア自治領は事実上ロシアが編入した。国際社会のロシアの行動に対して何も出来ないでいる。武力衝突が起きるよりマシだと考える事も可能だろう。しかし最初にカードを切ったロシアの一人勝ちを許している事に変わりない。TV番組で独り、意見を異にしたのは、映画監督であるアレクサンドル=ソクーロフであった。彼は官僚制とグローバリズムを人の手に余るものだと批判した。彼の映画に登場する歴史的な人物たちはシステムの前でただの人になる。昭和天皇は無力な一人の人間に、レーニンは惚けた老人に。人の手に余るものの上に君臨するプーチン、飼い馴らせない何かを飼い馴らせたように見せる姿。主人の手の震えと冷汗を、感じ、指摘しなければならない。

災害対策基本法」と題されたコピー用紙の束片手に眼鏡を額に掛け見入る中年男性。社交ダンスの動画をYouTubeで検索する女性。あと三日で三月が終わる、月日の経過が早いと呟く同僚。満員電車の中でラムネ色のグミを口に放り込む年頃の女性。客先からの注文に乱した髪のまま嘆く上司。コピー用紙を見入る女性。日本語にはない文字列、外国語の単語やフレーズや活用を見つめる憶えようとする姿が浮かびあがる。全ては想念のなか歪に再構成されて底にある。