かぐや姫の物語

高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』を観た。
かぐや姫の物語とは何だろうか。昔話として、中学、高校の古典の題材として馴染みがあるものの、詳細を思い出そうとすれば、求婚者に無理難題を吹っかけるという件は思い出せるものの、なぜかぐや姫は地球に来たのか、なぜ月へ帰る事になったかのという理由は思い出せない。それとも特に語られず「そういうもの」としてスルーされているのだろうか。

上記のサイトで現代語訳を確認したところ、かぐや姫の言うところでは「前世からの約束があり」月から地上に降り立ったという。またかぐや姫を迎えにやってきた父親は「かぐや姫は罪をお作りになった為に」月から地上に降り立ったのだという。地上に降り立ったのはかぐや姫の罪の為であり、それは短い期間という約束だった、とも。
前世での約束―かぐや姫の罪、によって月から地上に降り立った、そしてその罪の罰としての期間が地上での生活という事を確認出来た。
しかし、かぐや姫の罪の内容は具体的に触れられていない。

本作ではかぐや姫の罪の内容が明かされるかたちになっている。しかし、その内容を私が理解出来たかは疑わしい。
本作は竹取物語のあらすじに従っているものの、上記の現代語訳が描いていない部分も多くある。この部分こそ物語を解釈させている。
物語の概略を追う。

かぐや姫の成長する途上として、野山に住む木こりたちとの交流が描かれる。
そこで登場するのは捨丸という兄貴分の青年である。かぐや姫もまた捨丸を兄と慕い、野山での生活に喜びを見出している。
しかし、翁はかぐや姫は高貴な生活をしなければならぬと考え、都へかぐや姫をつれていく。かぐや姫は捨丸たちと別れを告げる事も無く野山を去る。

都では姫として育てなければという翁の考えで家庭教師役の相模の元、琴や手習いを始める。相模が語る高貴な方の在り方について反発したかぐや姫は言う。
「高貴な方とは人間では無いのね」と*1
髪結の儀式に臨み、祝宴が繰り広げられる。しかし酒に酔った男たちがかぐや姫の姿を一目見ようと翁の遮りを断る声を聞き、屋敷を飛び出し、野山へ向かう。
野山に戻ると翁と媼と過ごした家には知らぬ人々が住まっている。木こりたちの家は潰されている。炭職人は「木こりたちは自分たちが取れる木々だけを取り、新芽の残しまた別の場所へ向かう。ここに戻るのは十年掛かるだろう」と語る。
気がつけば祝宴のなか寝入っていた事に気が付くかぐや姫。しかし持っていた貝殻は酔った男たちへの激情の為か、割れてしまっている。

髪結の儀式を終えると高貴な方々が姫に求婚する。相模は「これほどの高貴な方々であれば誰を選んでも問題無い」という。しかしかぐや姫は「見たことも無い知らぬ人々との結婚など」と語る。
そして高貴な方々は無理難題を吹っ掛けられ、宝を探しに行く。偽物を用いるもの、海に出て怖気づくもの、無理をして死ぬ者、言葉巧みに口説く者、しかしそれはどれも失敗に終わる。しかし、かぐや姫が心を揺り動かすのは、言葉巧みに口説いた者である。「一緒にここでは無いどこかへ」という言葉は、屋敷での生活を憂鬱に思うかぐや姫の心を揺り動かす。しかし媼はいう。そういった言葉に誘惑され身を持ち崩し尼になった者数知れず、と。

求婚者たちに無理難題を求めた事によってかぐや姫を望む者達は屋敷の周りから姿を消す。花見の為、都を出、桜の美しさに心を踊らすも、通り掛かりの民衆に高貴な方として接せられ気分を害してしまう。都へ戻ると盗みを働く一味に捨丸の声を聞く。鶏を抱えた捨丸に馬車から声を掛けるかぐや姫かぐや姫の姿を見て立ち止まる捨丸。そうこうしているうちに追手に袋叩きにあう捨丸。痛ましい姿にかぐや姫は顔を隠すのであった。
一方、かぐや姫は媼が屋敷で作った畑を欲しいと願う。雑草だらけになった畑を屈んで覗くと、野山での風景が映し出されている。かぐや姫はそれを心の慰みとして屋敷で生活する。しかし、求婚者たちがかぐや姫を求めた事によって身を持ち崩した事を知り、激情に駆られ、畑を破壊する。

かぐや姫が高貴な方々の求婚を退けた事を知ると帝がかぐや姫に興味を抱く。しかしかぐや姫は宮仕えを断る。そこで帝はかぐや姫を一目見ようと密かにかぐや姫の元に訪れる。琴を奏でるかぐや姫の美しさに驚嘆した帝は、かぐや姫を背後から抱きすくめる。しかしかぐや姫は姿を消してしまう。驚いた帝は姿を現して欲しいと頼み、かぐや姫は暗闇から姿を現す。帝は一旦その場を後にする。

かぐや姫はその後月を見て過ごすようになる。その姿を心苦しく思った翁と媼はかぐや姫を問い質す。するとかぐや姫は自分の地上の人間では無く、月の人だと語る。
月での生活で出会ったある女性は地上での生活を思い、涙を流していた。彼女は地上での生活を忘れていた。しかし地上には涙を流す理由がある。月は心は平穏でも喜びも悲しみも無いのだ、と。かぐや姫は月での平穏では無く、地上の喜びと悲しみを求めてやってきた。しかし、帝との出会いによって「帰りたい」と望んだ故に月から迎えがやってくるのだ、とも。

かぐや姫を思った媼は馬車を出し、野山に向かわせる。そこで山に戻った捨丸がやってくる。捨丸との出会いに今でも兄として慕っているというかぐや姫。そして捨丸と共に生活していれば生きる喜びを見出だせたと語る。その言葉に答えようとする捨丸。二人は野山を駆け、空を舞い、地上に喜びを見出す。しかし、月を臨んだところでかぐや姫は姿を消す。眠りから覚めた捨丸は、木こりたちと妻子の元へ向かう。

かぐや姫の迎えは雲に乗った仏と天女の姿をした人々が音楽を奏でるというかたちで現れる。その姿はどう見てもあの世の人々を思わせる。常に平穏な心の世界、即ちそれは天国であろう。だとすればかぐや姫キリスト教的に言えば、下天を望んだ天使たちと同じという事か。
かぐや姫は天女が地上を汚れた場所と語るのに反駁する。「この方々は汚れてなどいません。喜びも悲しみも…」*2。すると天女は人が変わるという羽衣でかぐや姫を包む。かぐや姫は言葉を失い、月に召されてしまう。


かぐや姫の罪とは月での生活―天国では無く、地上の人々との生活―生の喜びや苦しみを望んだ事だという私の解釈は以上の通りである。そして月に召されたのは、生の喜びや苦しみから逃れたいという一時の思いである。
しかし、と思う。本作でかぐや姫は仮想現実という文法上でしか、「捨丸と共に生活を出来たのなら」という言葉の通り、地上での幸せを見出だせていなかったのでは無いか。
他方、仮想現実という文法上の幸福と、自身の思い通りにならない地上を、肯定してみせたかぐや姫は月の人では無く地上の人そのものだったという事なのか。
また、本作を見ながら、時代設定もあるのだろうが、女性という生き方を思う事になる。
この二つが、本作を虚しく、切なく、心苦しくさせる。


*1:後述するが、正にそのような在り方を月の人々はしているようだ。

*2:大意。もう少し具体的な事を発言する。