映画を見に行く普通の男

ジャン=ルイ=シェフェール著丹生谷貴志訳『映画を見に行く普通の男 映画の夜と戦争』を読んだ。
著者はロラン=バルトの推薦により絵画理論を発表し美術理論家として注目された人物であり、ドゥルーズ『シネマ』(第二巻、「時間イメージ」)に於いて本書は言及され知られているという。
本書で語られる映画は著者の経験した映画である故に幾分かの条件が付く。それは著者が子供時代、少年時代に観た映画であるという事だ。著者は1938年パリ生まれ、ナチス・ドイツのヨーロッパ拡張、パリ陥落の前年に生まれ、パリ解放1944年までの幼児の全てを「奇妙な敗戦」下のフランスに過ごしている*1。その頃の映画は、モノクロであリ、映画館で上映されるものであり、巡業されるものであり、フィルムの状態は良いとも限らない。
そのような条件下の元で著者が映画から経験したものとは何なのか。著者は、

じっさい、僕はおおかたの人々と同じように、気晴らしのために映画を見に行きます。しかし、何かの加減で、僕はフィルムの物語やらが指し示すものとはぜんぜん違うものをそこに看取してしまうことがある(例えば、フィルムの内容とは無関係に、死すべき者としての自分の縁にいるかのような気分になるのです―フィルムが始まるや、世界が不意に一種の無時間の中に消えてしまい、映写の持続と共に別の時間-世界が絶えずその無時間性から生まれ出ようとするかのように僕は感じる。その無時間性と時間との狭間で事物や身体の縮尺が狂ってしまい、部分がばらばらに異常に膨張するかのように感じる……要するに時空の蝶番が外れてしまい、すべてが定在の無い閾域の中に入り込んでしまうかのように感じる―そうなると、僕はストーリーや技巧を解読するような余裕などないままに、その無時間への後退と時間の誕生の反復に我を失い、その判定に巻き込まれてしまうことになる)。こんな具合ですから、僕はドラマやらを愉しむために映画を見に行くとは言えず、一本のフィルムの中でさえ至るところで反復される無時間への後退と時間への再起、その度に違う世界-時間が誕生する事態、要するに幾つもの世界の消滅と再起を同時に生きることが出来る、そのことの驚きのために映画を見に行くと言うべきかも知れません。
ジャン・ルイ・シェフェール著丹生谷貴志訳『映画を見に行く普通の男 映画の夜と戦争』「イントロダクション」p7より引用。

と語る。著者は子供時代、少年時代の映画の経験、「止み難い悪習」として映画を見に行くという*2
それでは本書は映画の何について語られるのかといえば「映画の可視性」についてである。「映画の可視性」は、「僕らのなかにその創成の場所を持ち、その生を持ち―言い換えれば、ここでいう可視性とは、フィルムとそれを見る僕らとの中空に開かれる何かなのです。*3」であり、「僕にとっての映画は、今言ったような、フィルムと観客である僕との中空に生成される可視化された意味の経験性、つまり特異な記憶を生み出す力の閾域として定義されることになると思います。*4」と説明される。

果たして著者のような映画の経験をする者がいるのかと思うと同時に、映画を見る事によって著者のような経験、何かに触れている事も否定出来ない。
訳者によれば著者が本書を読む読者に望んでいるのは共感であり、直感であるという*5

本書は難解な映画の理論書ともエッセイとも受け取れる。私はエッセイとして読んだのだが、本書を読みながら次々と想起されたのは、過去であり、例えば、スーパーマーケットで迷子になり途方に暮れ、目の前に雑然とタグごと積み上げられた塩ビ製の怪獣たちであり、抜けた歯の裏に固まった血と、その味と、乾いた唾液の匂いであり、手に握られた泥と靴の裏で摩擦する砂であり、コンクリートの壁の割れめの中のカビと跳ね返ったサッカーボールであり、野外でバスケットボールをゴールに掲げると同時に目に入る砂であり、校庭に引かれた白線が風に舞い、紙袋からだらしなく漏れた石灰の匂いであり、焼却場から跳ねあがった炭で焼けた皮膚の焦げた匂いと日に焼けた皮膚の痛みであり、切り開かれた杉林に無限に広がった空き地であり、空間を埋めるかのように伸びるセイタカアワダチソウであり、ススキの葉の硬さと手から漏れた切り傷であり、毛布に包まれた温かさと、窓から公園に降る雨の冷たさの思いであり、段ボールの隙間から見た暗闇であり、汗をかいたコンクリート壁面に浮いた汚れであり、水道の蛇口から流れる絶え間無い水の塊と割れたビー玉が崩壊する瞬間であり、水浸しになった芝生と水を泳ぐ蟻であり、雨戸を激しく打つ雨と開けた窓から入った雨の乾いた跡であり、暗い図書室と薄汚れた本であり、テレビで放映されたゴジラであり、家族で見た映画館のドラえもんジブリ映画であり、父親と見たスター・ウォーズであり、一人で見たホワイトアウト、等であり、つまり現在でありながら過去の奔流に流され、理解出来ない言葉の群れに巻き込まれ、本書を読み終えていたのである。


映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書)

映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書)

*1:『ジャン・ルイ・シェフェール著丹生谷貴志訳『映画を見に行く普通の男 映画の夜と戦争』「訳者あとがき」p342参照。

*2:同掲載書「イントロダクション」p7参照。

*3:同掲載書「イントロダクション」p8参照。

*4:同掲載書「イントロダクション」p8参照。

*5:同掲載書「訳者あとがき」p338参照。