風立ちぬ

宮崎駿監督作品『風立ちぬ』を観た。
私はこの作品を観ながら虚しさ、やるせなさを感じていた。そしてその感情は、この物語で描かれる日本が戦争し敗戦を迎えるという事実から来るものだと思っていた。
しかしそれは間違いだった。

物語の終わりに堀越二郎とカプローニは語る。
「誰も(零戦に乗って)帰って来ませんでした。」
「そうだ、国を一つ滅ぼしたのだからな。」
と。

この物語は堀越二郎零戦を完成させるまで、そして関東大震災の折りに出会った里見菜穂子との恋愛を描いている。
結核を患った菜穂子との束の間の生活と零戦の設計、堀越はそのどちらをも選ぶ。

そして冒頭に戻る。自ら設計した搭乗者は帰って来ない、国を一つ滅ぼしたという指摘。そしておそらくこの世には既にいないであろう、菜穂子の「生きて」という言葉。

私が感じていた虚しさ、やるせなさの正体は「国一つ滅ぼす」ような夢や「死を前にした恋人と束の間の生活」をするような覚悟が無い、自分自身にであった。

これは『桐島、部活やめるってよ』で描かれた実存の問題を想起させた。
桐島、部活やめるってよ』に於いて野球部の幽霊部員は自らが何も持たなかった事を知る。そして映画部の生徒は自らが自主映画制作を通して、好きな映画と繋がっている事で救われている。
しかし、どうだろう、この映画を前にして映画部の生徒は自らを肯定する事が出来るのであろうか。

堀越のような人生を誰もが生きられる訳でもない。そして誰もが何かを犠牲にしてまで夢を得る必要性もないのかもしれない。
しかし、である。自らの夢や感情に真摯に向かい合う事は誰もが出来るはずなのだ。
その現実を前に、私は虚しさを感じざる得なかったのだ。