描かない『バートルビーと仲間たち』

エンリーケ・ビラ=マタス著木村螢一訳『バートルビーと仲間たち』を読んだ。
こちらの本も「文学地図」同様、購入してから放置していたものだが、発売当初は非常に話題になっており「文学地図」の時評でも取り上げられている。その時評では「自分は何者でもないと信じる、心ある世の少数の人は、好きだろう。」とある。ブログ記事を遡ってみると、私はこの作品を通してハーマン=メルヴィル著『バートルビー』を知り読んだようだ。
昔、不可解な恋愛小説を発表し筆を置いた男が、頁の余白に「心の奥深いところで世界を否定している人間」、バートルビー的人間について収集し始める。そこで繰り広げられるのは、古今東西有名無名の、描かない作家、描けなくなった作家、姿を見せない作家たちのエピソードである。これらのエピソードは短く、時に長いものもあり、通勤の短い時間のなかで、寝る前の布団の上で、休日のうたた寝の前で、読み進める事になった。


読んでいる時、描くことは出来ない。読んでいる時、文章を追いながら頭の中で―別の事、過去の苦々しい出来事や、明日の仕事の事や、何か新しいアイディアやら冗談やらが―殴り書きされ、読み進められる文章によって上書きされていく。飽きと空腹が身体を台所に向けさせる。ヤカンに水を入れ沸騰させたり、冷蔵庫の開け閉めをすれば、本の内容もひらめきもどこかに消えてしまう。描くとなれば、怠惰さに、ブラウザに広がる情報の前に後回しになっていく。たかだか文書ソフトをPCに立ち上げる事さえ、面倒事の一つに挙げられていく。気まぐれに動画サイトから流した音楽が終わるまでブラウザに視線を流し続け、それはポルノサイトになり…。日常の瑣末さよ、嗚呼。
とか何とか。
日常の瑣末さよ、嗚呼。
描かなければ、描く可能性が残っている。やらなければ、やる可能性が残っている。「俺はやらないだけだ」という言い訳である。こういうものには概して聞く耳を持たない事にしている。なぜなら描かない、やらない可能性が残っているから。
とか何とか。


バートルビーと仲間たち

バートルビーと仲間たち