『雨あがる』

先日に時代を度々観ていた事については記載した。今回のその続きでもある。

浪人で腕はある武士は妻を伴って旅をしている。武士は腕はあるものの、なぜか職が続かない。それが武士の性格に起因するものである事を妻は見抜いている。
そんななかひょんな事からたまたま長雨で荒屋に逗留していたところ、藩主に気に入られ仕官の話が進む。妻に流浪の旅をさせていた事に後ろめたく思っていた武士は仕官の話を喜ぶ。しかし仕官のための御前試合で、藩主と手を合わせる事になった武士は、「熱くなってしまった」ために藩主を場外へ落としてしまう。すかさず謝罪するものの藩主は「うるさい」と一喝する。藩主は奥方と話すなかで気がつく。負けた事はどうでもよい、しかし勝った相手に謝られると自尊心が傷つく、と。そして武士が職が続かない理由を知るのだった。
この武士はその優しさゆえに人の自尊心を傷つけ、職を失っていた。しかし妻はその優しさこそ―たまたま逗留していた宿で仲違いする連中を慰めるために賭け試合で得たご馳走を振舞ってしまうような―武士の良さである事を見抜いているのだ。
この武士は自身の性格により職につく事は難しいだろうが、それを窘める事を妻はしないだろう。

たかだか性格である。しかしたかだか性格は職場では居心地の良さを左右する。よく離職する理由に「人間関係」があがるのが良い例だろう。
そういった意味でとても普遍的な事をこの物語は語っている。
そして、そういったものを純粋に登場人物に与え、宿命、業、運命、信念として描いているのが時代劇のようなのだ。

翻って、現代を生きる私が背負う宿命やら業やら信念があるのだろうかと考える。このどうしようも無い、飼いならせない、判らない自分という存在。前回も記載したが、そういったものを時代劇は身分制やら何やらで諦めさせる力が働いている。一方、私たちは?
つまり飼いならすという行為そのものを身につける必要があるのだろうか。
はてさて。

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