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2011年3月11日前後について

3月11日に発生した地震について書き残そうと思っていたものの、直後に何かをしようとも思えず、かといって書こうという意欲を蔑ろにする気にもなれず、この時期に書き記す事にした。

新しい仕事を始め約1ヶ月が過ぎようとしていた。仕事の要領もそれなりに把握し、昼食を取る場所も決まっている、そんな時期だった。
私がこの日の午前中の仕事の内容は憶えていない。おそらく職場で作業をしていたか、前日の仕事が遅くなった事を理由に午前11持頃に出社したのかもしれない。この日のTwitterでの呟きを見ればその日の行動を推測する事が可能だろうが、残念ながらTwilog*1を利用しておらず、今となってはその日の呟きを見る事は出来ない*2。しっかりと憶えているのは、昼食に居酒屋チェーン店のランチタイムを利用した事だ。ご飯と味噌汁お替り無料のその店で腹を満たした。
私は午後から単身外出する事になり、西武池袋線椎名町駅付近、その後JR田町駅付近を向かう事になっていた。
椎名町駅付近での仕事を終え、田町駅に向かった。とはいえ田町駅付近での仕事は夕方からになり時間に余裕があった。私は椎名町駅までの道すがらコンビニでトイレを借り脱糞し喫煙所で煙草を吸いゆっくりと駅まで向かった。
私は椎名町駅の改札を通過すると池袋方面行きホームとは反対のホームにいる事に気がついた。私は反対側のホームに行く為に階段を利用する事にした。私の近くには老婆と女性高生が歩いていた。
その時、地震が起きた。かなり強めの地震が来たなと思った。しかし直ぐに収まるのだろうとも思った。しかし地震は収まらなかった。激しい横揺れに立っている事もままならなかった。私は近くにいた女子高生と老婆と顔を見合わせた。私は「ちょっと大きい地震ですね、頭上に気をつけた方がいいですね」と長く続く揺れに態勢を維持しようとする二人に声を掛けた。女子高生は愛想笑いで、老婆は「本当に大きな地震ね…」と苦しそうに応えた。揺れは続き、駅舎の屋根や蛍光灯から埃があがっているのが見えた。ホームに入ろうとしていた電車は緊急停止して踏切の横で揺れが収まるのを待っていた。
揺れが収まりホームで様子を見ていた。駅の改装工事の為に配備された警備員が慌ただしく動き回っていた。そして「ホームは危険なので駅から出て下さい」と大きな声で言った。
私は駅を出て近くにある公園に向かった。建物から路上に多くの人が出ていた。私はコンビニの中を外から覗いたが商品が床に少し転がっているのが見えた。

公園にも多くの人が集まっており、子どもたちが元気そうに走りまわっていた。今思うと子どもたちが元気な姿を見せている事に幾分救われたかもしれない。
私は喫煙所で煙草を吸う事にした。喫煙所のベンチではラジオで地震の状況を熱心に聴く老人がいた。私は同年代位の男性と話をした。彼によれば電子レンジが床に落ちて壊れてしまったという。そして実家が福島県で、浜通りではないから津波の影響は無いと思うが、心配だ、とも。

会社には携帯電話で連絡を取ろうとしたが通話が出来ない状況になっていた。私は仕方なくスマートフォンTwitterやニュースを眺めていた。
公園で1時間程過ごしたが電車が動く様子も無く、どうしようかなと思っているところで公園の横に公衆電話がある事に気がついた。とりあえず私は職場に電話を掛ける事にした。公衆電話は人が大勢並んでいるという事はなく、電話BOXの中で長々と話す老人と、その後に続く小さな子どもを連れた母親しかいなかった。職場に電話を掛けると同僚たちは仕事先に出ているとの事だった。こんな状況になっても仕事をしている事に呆れた。私は電車が動かず田町駅に行けるか判らない事を伝えて電話を切った。
電車が動き出す気配が無かったので仕方無く徒歩で山手線沿線を目指す事にした。幸いな事に椎名町駅は池袋駅まで一駅しか無い。池袋駅を目指しても良かったが混雑している事は目に見えていた。田町駅に行く事、仕事が流れて帰宅するかもしれない事を考えると目白駅を目指すのが良いのかもしれない、私はとりあえず行動を移す事にした。
特に考えもなく歩いていると山手線沿いを歩いていた。線路沿いには停車した電車を降り線路の上を歩く人々がいた。

目白駅に着くとバス停留所には多くの人が並び、駅改札前には多くの人が集まっていた。交通機関が正常に動く様子は無い、そう判断した私は新宿駅まで歩く事にした。
新宿駅近くになると新宿方面から多くの人が歩いてきていた。私は遠くに見えるコクーンタワーを目印にして新宿を目指した。
新宿駅西口に行くとバスターミナルに並ぶ人々の列が駅構内まで続いていた。駅構内の電光掲示板には「JR」とのみ表示され、電車が動いていない事を伝えていた。駅構内の階段には多くの人が疲れた様子で座っていた。


田町駅付近での仕事の時間は過ぎており、私は自主的に帰宅する事にした。
やはり帰り道も多くの人が歩いていた。途中、自宅までの道を間違えてウンザリしながら、自宅最寄りの一駅前までたどり着いた。空腹を憶え仕方無なく駅前の牛丼チェーン店に入り食事を取った。食事を取った後、近くの公衆電話から職場に連絡すると明日の予定はまた連絡するとの事だった。この時、家族に電話を掛けたかどうかは今となっては忘れてしまった。
自宅にたどり着いたが、特に何も被害は起きていなかった。よく考えてみれば、家には本棚と冷蔵庫と電子レンジしか揺れによる影響を受けそうなものは無かったのだ。
翌日、午前中に職場から連絡があり自宅待機を伝えられ、正午に自宅待機を解除、休みを伝えられた。
地震に関するニュースは福島第一原発の状況を伝えるようになっていった。

この地震の被害を目の当たりにして感じた事は「いつ死んでもおかしくはない」という事だった。そしておそらくこれだけの被害を目の辺りにしても、直接的な被害の無かった私の日常は*3、さも当たり前のように、何事も無かったかのように、日々の金銭による生活を維持する為に取り戻されるのだろうという事だった。それは「いつ死んでもおかしくない」という感情も傲慢にも淡々と取り込んで、だ。そして切迫した感情と緩慢な日常が取り戻されるという矛盾した感覚を持って数カ月間を過ごした。その予測は結局のところ的を得ていた。しかしこうやって年の瀬に9ヶ月前の出来事を記している点で、的の中心に矢を射ている訳ではなかったのだった。

*1:Twitterのログを保存するサービス。以前は利用していたが全てのツイートが「流れない」事に恐怖し利用を解除した。

*2:Twitterは3000ツイートまでなら遡れるらしい。

*3:いえば放射能汚染等の被害を被っているのだろうが。