来世なんてないさ!『ヒア アフター』

ヒア アフター』をDVDで観た。

クリント=イーストウッド監督作品。
『グラン・トリノ』以降、同監督の作品を観た*1
こちらの記事でも指摘した通り、本作冒頭の津波シーンが、3月11日に起きた震災を連想させる事や被害の状況を配慮するという理由から上映が中止されていた。確かに本作冒頭で描かれる津波のシーンはよく出来ており、テレビを観ていない私でさえ動画サイトで何度も観た津波の映像を想起したし恐怖心を煽られた。しかし上映中止するのではなく作品に津波のシーンが含まれている事を観客に事前に伝えるだけでも良かったのではないかと上映の是非については考えている*2

物語は、津波の被害に飲み込まれ臨死体験をした後にある不思議な映像を見るようになった女性ジャーナリスト、双子の兄を亡くし兄との再会を試みる少年、霊能力を持ち霊能力者である事を生業としていたものの今はその能力を伏せて生活する男性らが描かれる。

ヒア アフター」が「来世」という意味である事はこの作品を観てから知ったのだが、この作品において「来世」=死者と交信し、その声を伝える事が出来るのは霊能力者の男だけである。女性ジャーナリストは「来世」の映像を臨死体験によって得る事が出来るものの能力として使いこなしている訳ではない。この物語では霊能力者である男性も女性ジャーナリストも含めて「事故及び病気による脳への影響によって死者たちの声を聴く事が可能になった」という設定である。

霊能力を使いこなせる男性は、その霊能力を「呪われた力だ」「何の役にも立たない」と言い、時たま兄が連れてくる客に嫌々ながらも霊能力で死者たちの声を代弁している。
本作を観て思った事は「今」についてであり、「来世」は「今」を引き立たせるものとしてしか機能していないという事だ。

本作において霊能力によって死者の声を必要としているのは、双子の兄を亡くした少年である。この少年は兄の死を受け入れられず、兄の死と薬物依存から立ち直る為シングルマザーから里子に出されているという設定である。
少年は物語の終盤、霊能力者の男性と出会い、兄の声を代弁して貰う。兄は少年に独り立ちしろと声を掛ける。しかし、この物語の終わりに療養する母親と抱き合う少年がいるだけであり、兄の声が意味を為していることは判らない。しかし少年は母親と抱き合い幸せそうだ、とりあえず良かった。

霊能力者である男性は、臨死体験を研究し本を書き上げフランスでは干されたもののロンドンでは出版する機会を得た女性ジャーナリストに出会い興味を持つ。そして少年の手引きによって女性ジャーナリストと再度出会う事になる。男性は女性ジャーナリストと素晴らしいこれからを想像する。やはり幸せそうだ。
女性ジャーナリストも同じ能力に理解ある男性と出会えるからきっと幸せになるだろう…。

ここで「来世」の存在は、主人公の言う通り、全く役に立っているとは思えない。そもそも「来世」とは人の死を納得出来る人には用が無い。
本作では日常とか出会いとか時間の経過とか、上記で記した少年や男性のように環境の変化で、救われていっているのではないかと思える。
私は本作が徹底的に「来世」の無力を描いているようにしか見えない。しかしそれが「今」を精一杯生きる、という事につなげれば、「来世」=死者たちの意味を取り逃してしまうのではないだろうか?

尚、本作では霊能力者の男性と仲睦まじくなるも、霊能力に興味を示し男性から父親による性的虐待と謝罪の意を伝えられ、破局を迎える事になる酷い役柄の女性が登場するのだが、目隠ししながら食べ物を食べさせるシーンやらが非常にエロティックに描かれ見所である。




Hereafter [DVD] [Import]

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*1:グラン・トリノ』の次作品である『インビクタス/負けざる者たち』は観ていない。

*2:この行為自体ある意味おかしいと思わなくもない。しかしプロモーションで作品の一部シーンを目にする事が多い昨今の状況では許容範囲なのではないかと思う。この問題について考える事はこれまでとするが、重要な問題だと認識している。