バタフライ効果の灰

将来学者になる小学二年生は人生に飽きて学校に火を点ける。
玄関に放置されたポリタンクの中に入った灯油を浸した新聞紙がビニール袋から匂いを発する。新聞紙から滴る灯油をこぼれないようビニール袋に入れたつもりが、ビニール袋の底から灯油が一滴ずつ滴った。家と学校を結ぼうとする油滴に少年は不安をおぼえながら、自身が通う小学校を目指した。
夏休みに入った小学校の校庭には蝉の声のみ響いていた。体育倉庫の裏手に入ると、捨てられた雑誌が散逸していた。少年はポケットから取り出したチャッカマンの先で頁を開いた。開いた頁には裸の女が男の上に乗り上がり苦悶の表情を浮かべその背中を少年に晒していた。「エロ本じゃ、下らない」少年は散逸した雑誌を拾い集め、その上にビニール袋を置いた。「エロ本ごと燃やしたる、よく燃えるじゃろ」少年はチャッカマンのスイッチを押し、ビニール袋に小さな火を近づける。スイッチを押す人差し指の腹に今まで感じた事もない圧力を感じた。
少年はビニール袋に火を点けた。下腹部に感じる熱が、自身の行為によるものなのか、雑誌を見てしまった為なのかは判らなかった。燃えたビニール袋はみるみる灯油に浸した新聞紙に収斂し、灰が空に舞った。少年は火に包まれた新聞紙を見ながら「あまり燃えんじゃ、雑誌の方に火がいかん」と独りごちながら、その場で膝を折った。少年はチャッカマンの先で湿った地面を適当に掘り出しながら、小さくなっていく火を見つめた。苦悶した表情の女の顔がちらついた。火は小さくなりながらも消える事なく新聞紙を包んでいた。
少年はふと燃える新聞紙から目をそらすと、ビニール袋から落ちた油滴にも火が点いている事に気がついた。少年は慌てて砂を掛けたが、火は逃げるように次々と油滴に燃え移り少年の家に向かった。「家が燃えてしまうんじゃろうか?」少年は走って油滴を走る火に追いつこうとした。口の中に流れた汗の塩辛さに少年は苦虫をつぶした。
頭によぎったのは兄が話して聞かせてくれた県境で過去に起きたという連続殺人事件の事だった。話によれば有名な小説の題材にもなっているという。題名こそ忘れてしまったが、狂った男は猟銃と日本刀を持って家族や集落の人を殺したという。「僕も殺人者になるんじゃろうか?」少年の頬に涙がつたった。
少年は涙を右腕で拭うと自分が砂の上を走っている事に気が付いた。油滴の痕はどこにも見当たらない。「ここは鳥取砂丘じゃろうか…」小学校に入学する前に家族に連れらて来た場所だ。父親に「これは砂漠なの?」と尋ねると「砂漠じゃなくて砂丘じゃ、でっかい砂浜なんじゃ」と答えた。
少年は足元に砂に埋れた焦げた新聞紙と雑誌を見つけた。紛れもなく自分が体育倉庫の裏で火を点けたものだった。少年は慌てて燃え切らなかった新聞紙にチャッカマンで火を点けた。「全部燃えなきゃ、俺が村を燃やしたとわかってしまうじゃ…」新聞紙に火を点けると、灰が砂と共に舞った。新聞紙が灰になって燃え尽き、開かれた雑誌が少年を捉えた。苦悶の表情を浮かべる女がこちらに背中を向けていた。少年は女の苦悶の表情からその背中に目を向けた。女の背中に刺青が彫られていた。尻の上の赤い花に蝶が舞い、背骨からうなじに掛けて数多の蝶が竜巻飲み込まれていく様が描かれていた。その頁にも火がまわり、みるみる内に女の背中は灰になって宙に舞い上がっていった。
少年は砂と共に舞う灰を見ながら、もう家に帰れない事に涙を流した。母が作ったロールキャベツも、兄が作ってくれた竹トンボも、もはや自分のものではなくってしまったのだ。少年は宙に散れじれに舞う灰を見送った。

Twitterより加筆修正して転載