『白痴』 『未成年』

 ドストエフスキー著『白痴』『未成年』を読んだ。
 ドストエフスキーの五大長編を読み終えようと思い、この二冊を読むことにした。私は『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』の中では『悪霊』が好きである。聖書に書かれているレギオンになぞられた登場人物たちの悲劇的結末がもたらすカタルシスに私はしびれた。ある意味では悪趣味といえるかもしれない。一方で『罪と罰』における主人公の救済に感動したのも事実である。『カラマーゾフの兄弟』においては、一つ一つの説話がかなり印象が強い。
 とりあえず読み終えたことですっきりした。これが去年の7月頃の事とは思えない…。

 さてまず『白痴』についての感想を書く。
 主人公であるムイシュキン公爵は幼少期から白痴であり、スイスで治療することによって物事を十全に理解出来るようになったという。養育者が亡くなった為にスイスからロシアにやってきた。しかしながら世間というものを知らない、純粋で無垢な存在として描かれる。
 そしてムイシュキン公爵がその純粋さ故に選び出す行動は優しさと残酷さを併せ持っている。
 それは令嬢アグラーヤと美女ナスターシャとの関係に現されているのだが、その関係においてムイシュキン公爵は「可哀想だから」と一方の女性を選び取る。「可哀想だから」という言葉において、ムイシュキン公爵の純粋さが伺えるのだが、何かを選び取るとき、「可哀想」な存在は必ず生まれてしまう。結局ムイシュキン公爵の純粋さはその実行によって「可哀想」な存在を生み出す矛盾として描かれる。
 また気になる部分があって、ムイシュキン公爵が高貴な方々と会食するシーンがあるのだけど、そこで高貴な方々に感動したムイシュキン公爵がひたすらしゃべり続けるのが印象に残っている。例えばここでムイシュキン公爵が求められていたのは節度ある人物であることを高貴な方々に示すことだっただろうが、彼は話に夢中になって、笑われるのである。この語りが止まらないという状態に陥った時、節度が保たれることはどれだけ出来るのだろうかと私は思う。この時自分を制御すること、飼い馴らすことの難しさを、私は最近考えている。
 
 『未成年』はどうも読みにくいと思った。どうやら主人公アルカージイの手記という形を取られていることが原因だったようだ。
 そこでアルカージイが語り出す「理想」というのが結構面白い。それは「ロスチャイルドになること」である。アルカージイ曰く世界にロスチャイルドが一人しかいないのは、本気でロスチャイルドになろうとする人がいないからだそうである。全くその通りなのかも知れないが、その青臭い言葉は昔の私の日記冒頭に書かれているような類の匂いがする。つまり中二病的なものである。
しかし彼はそういう「理想」を立てる一方で、この理想は常に猶予されるものだと言って、浪費しまくる。この理屈は素晴らしい。人間は頭の中では常に理想に燃え、実行することが出来ないといったのは『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老だった。つまり実行されなければ意味がない。「実行の愛ですじゃ」
 父と子の関係が描かれているのだろうけど今となってはほとんど憶えていない。しかしアルカージイとタチヤーナ叔母のやり取りはドストエフスキーの著書の中では名コンビ振りなのではないかと思う。


白痴〈上〉 (岩波文庫)

白痴〈上〉 (岩波文庫)


白痴〈下〉 (岩波文庫)

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未成年 上 (岩波文庫 赤 614-6)

未成年 上 (岩波文庫 赤 614-6)


未成年 中 (岩波文庫 赤 614-7)

未成年 中 (岩波文庫 赤 614-7)