1Q84

村上春樹著『1Q84』を読んだ。
おそらく発売直後に村上春樹を読んだのは初めてだ*1。急に長い暇な時間が出来てしまった私は、勢いで『1Q84』を本屋で購入した。そして集中して一気に読み終えた。
村上春樹の著作は昔から読んできた。何となく読みたいなと思った時、図書館から借りてきていた。それは正に暇つぶしというに相応しい。そういう読み方が可能だという点で私は村上春樹の著作が好きだった。また最初に読んだのが『ねじまき鳥クロニクル』であったということも重要かもしれない。『ねじまき鳥クロニクル』の難解さを前にすれば、他の村上春樹の著作は平易に思えた。ただそういう読み方をすることによって、私は無批判に村上春樹の著作を読むことになった。そのような態度の後に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『アフターダーク』『海辺のカフカ』等の作品を読むことになった。もちろん発売直後に読んだ訳ではなかった。ちなみにこの中なら『神の子どもたちはみな踊る』の数編が強い印象を残している。おそらくそれらの作品に「ここまで生きてしまった、もう戻れない」という事態が表現され、それに強い共感を私が覚えるからだろう。そうやって考えると『海辺のカフカ』という作品は、それが宿命、運命といったかなり固定的なものとして捉えられているように思う。そういったものを前にすると、どうもその対処に困る、というか開き直ってしまいそうになる。これは個人的に全体を包括する視点より、その一部からの視点によって語られ意味付けられる世界に私が興味を持っているからかもしれない。

『1Q84』を読むとある比喩が別のシーンに用いられ連関していくことに気がついた。おそらく意図的にされているその技術に、ああ村上春樹は素晴らしい作家なのだな、と今更実感した。
物語自体に起きる不可思議な事態も割と説明されていた。もちろん物語であるから解釈はある程度自由なのだろうが、想像のための道筋のようなものは示されている。
しかし、主人公とヒロインが性交を行うシーンがあるのだが、それが「しなければいけない」ものとして描かれる。村上春樹の物語にいて、このシチュエーションはよくあるのだけど、望んで行う性交に比べて、「しなければいけない」という設定は、ズルイよなと感じてしまう。そういう性交というものが果たしてどこにあるのだろうと思う。それとも男女において両者の合意による性交なんて勝手な思い込みであり、性というものは「そういうものだ」ということなのだろうか。どこか責任が回避されたそれを見せられるといつも思う。もちろん現実には、「流れ」でそうなってしまうということは起きるのだろうが。
今思えば小中学生の時、村上春樹を読んで大学生にでもなれば彼女がいてそこにはセックスがあるという事態が沢山ころがっているのかも、と勝手な妄想をしていた。しかし当たり前のことだが、現実にはそんなこともなく地道な?努力によってやっと女性との距離を埋めていた自分がいた。
それはさておき、物語は最後に向けて展開されるのだけど、一人の主人公にはこれからの行いが示されていて、それが前向きなラストとして捉えられなくもない。少なくとも私はそう捉えた。しかし、前向きに捉えれば良いってわけではなさそうだ、たぶん。

1Q84 BOOK 2

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*1:とはいっても発売から一ヶ月経っていたが。