『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を家で、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を映画館で観た。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が公開当時、正直私は「今更エヴァか…」という思いだった。友人がわざわざ前売り券を買いに行列に並んだ話を聞いた時も、話半分に聞いていた。そして公開、評判が聞こえてきた。絵が綺麗、敵であるラミエルがスゴイ等々、少し興味を注がれたが、私の重い腰が上がることはなかった。やはり「今更…」という気持ちは拭えなかったのだ。
そして今回『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が公開され、その評判を聞くにあたり、興味を覚えるようになった。友人からの強い勧めがあったのも一番だが、物語が旧エヴァ作品から大きく変更されているという話を聞いた時、観たいという欲求が抑えがたくなった。
とはいえ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観ていない私は、序を見ない判断を改めるの癪だった。なので「序」が面白かったら、「破」を観に行こうと決めた。
レンタルショップから「序」を借りて観た。わかっていたことだが、面白い。旧エヴァ作品が放映及び公開されている時、ハマッていたのだから当然といえば当然のことだった。評判通り絵は綺麗だし、敵である使徒は以前より魅力が増している。エンターテイメントだった。しかし一方で、あれだけハマッたエヴァだったのに一体私は当時この作品の何を観ていたのだろうという思いが沸き起こってきた。間違いなくいえることは、意味深げな用語や謎について物語を追うことによって解消しようとしていたということだ。しかしその一方で私はそれ以外を無視していたのかもしれない。もしくはわからなかったのだ。物語の登場人物の関係性や考えが。しかし今は違う。私は物語の謎より、登場人物の考えや関係性をひたすら追っていた。それは以前より知識が向上していることもあるだろうし、旧エヴァ作品を観ていることによってそのデティールに注意を向ける必要がなくっていることもあるだろう。世界の謎より登場人物の心を追う、私のエヴァ作品の観かたは変化していた。
 
そして「破」を観に行く。物語は冒頭から新しい展開を見せてくれた。新しい登場人物や、今までの登場人物の一新された性格、全く飽きなかった。主人公の駄々っ子ぶりは以前の鬱屈ぶりよりは気持ちが良いし、登場人物も以前より素直になっているのも微笑ましい。エヴァンゲリオンと使徒たちとの対決も「序」と同様興奮させられる。しかし、その面白さも旧エヴァ作品との差異で持って楽しんでいるという構造がある。そして冗談ではないかともいう後半の展開を笑いながら、そしてどうして以前と違うのかという差異について考えていた。果たして初めてエヴァ作品を観る人はこの映画をどう楽しんでいるのだろうか、それが気にかかる。少し内容に触れると、主人公シンジが自分でエヴァを操縦しないことを選ぶシーンが何度かあるのだが、その選択が逆にシンジの望む結果と全く違う形になってしまう。自分には出来ないという一方で、自分で行えば最悪の結果は免れたかもしれない現実。シンジはそのことに気がつくのが確実に遅い。この考えは結果論であり、そもそもエヴァという物語において子どもたちは常に大人の手の平で踊らされている側面があるから仕方のないことかもしれないが。そんなむず痒さを感じていたのだが、「破」においてその結果論を覆す力をシンジが発動させることを望んだということで、このシンジの遅れが物語に尾を引かなければいいと思う。また物語に登場する、旧作では渚カヲルと名乗っていた少年は、非常に私たちと同じ状態―つまり旧作を知っている節があるのでシンジの行動を補正させるのかもしれない。
とはいえ、これから物語は大きく変化を見せてその差異による観かたを越える新しい物語としての楽しませてくれるのだろうと思う。事実、「破」において旧作品のラスト部分にあたると思われるところまで物語は進んでしまったのだから。