アカルイミライ

 『アカルイミライ』を家で観た。
 黒沢清監督作品。
DVDの特典映像で出演者の藤竜也はこういっている。この映画は化学反応を観た人に起こさせるタイプの映画だ、と。確かにこの映画そういうタイプの映画だ。一気に自分の考えが映像に持っていかれて何だかわからない気持ちにさせる。それを新しい化学式とするなら、それを読む術は私にはない。ただそれがあることはわかるのだけど。なので私が一応言葉に出来る範囲の場所について語ろうと思う。そしてそこからその化学式を読むヒントを見つけたい。
 まず気になるのは主人公たちの服装や生活させる場所だ。主人公を演じるオダギリジョーの服には無数の穴が開きボロボロだ。それに呼応するように彼の住む家は薄汚れ、廃墟といっても過言ではないような家なのだ。この家を見て思い出したのは黒沢清がこの作品の後に監督した『叫』に登場する廃墟だ。『叫』における廃墟は誰からも忘れられた療養所だった。そしてその療養所から助けを求めていた女性に気がつくことが出来なかった人たちが、事件に巻き込まれていく。この『叫』における廃墟の意味を『アカルイミライ』に当てはめるなら、主人公は忘れられた場所に住み生活しているということになる。言い換えれば取り残された場所で生活しているということだ。また『アカルイミライ』にしても『叫』にしても登場人物たちの住まいに、住居らしさがない。『アカルイミライ』におけるプレハブの室内のような友人の部屋、『叫』の主人公が住むコンクリートや配管がむき出しのアパート。さらに彼らが働くオフィスや工場は小奇麗さこそあれ、どこか人を寄せ付けない場所のように見えたりする。言い換えるなら人のいることが異様に思える場所だ。
 重要なのは、それが東京という場所であるということだ。黒沢清は文化系トークラジオLifeに出演した際、自分は東京を撮っている、といっていた。そして東京のロケーションにはこだわっているとも。上記に説明した廃墟、部屋、オフィスがセットなのかどうかわからないが、そこは東京の一部なのだ。そして黒沢清が見せる東京と、私が持つステレオタイプな東京*1は一つにまとめると奇形な東京が出来上がり、私はそれに気持ち悪さを覚える。
 ここで青山真治の『サッド・ヴァケイション』に登場する福岡を黒沢清の東京と比べると面白いかもしれない*2。青山真治の撮った福岡は寂れている。もちろん廃墟も出てくる。しかしそこには人がいてもおかしくない気を持たせる。また寂れてはいても陽が射し、植物や小動物、代わりになる何かが勝手に住みかにするような気を持たせる*3。一方で黒沢清が見せる東京はそのまま朽ち果てるまで何も変わらず、誰かが手を加えなければずっとそこにあるような気にさせる。今書いていて気がついたが東京というのは、自然に形成されるのではなく、人工的に形成されなければ活性化しない場所ということかもしれない。もちろんそこに住まう人も。
 物語はそんな場所で繰り広げられる。主人公の先輩格である友人が勤め先の工場長とその妻を殺害する。その殺人は主人公が工場長に貸したCDを取り替えすために殺意を抱きながら工場長宅へ向かっている時の出来事だった。そして友人は主人公にクラゲと生前に約束していた二人のルール「行け(行動しろ)」の合図を残し拘留所で自殺する。そこに友人の父親が現われ物語が展開する。ここから展開する主人公の行動が、突発的で、不安になる。結局主人公が精神的にも空間的にもどこにいったのか最後まで私にわからなかった。たぶん東京をクラゲと一緒に出て行ったと思う。ただ映画の終わりに延々と歩き続けるイカれた青年たちはおそらく東京に退屈しながらも残り続けるような気がする。彼らに「クライミライ」はなさそうな気がする。ただそれが「アカルイミライ」であるかどうか私にはわからない。
 出演陣が良くて、若き日の加瀬亮、松山ケインチが出ていたりする。オダギリジョーはこの映画が初主演だったとか。今じゃ全員主役級の俳優だ。
 これを観て『トウキョウソナタ』が非常に見たくなった。なんで観に行かなかっただろう。



アカルイミライ 特別版 [DVD]

アカルイミライ 特別版 [DVD]

  • 発売日: 2003/06/27
  • メディア: DVD

*1:便利でお洒落で綺麗な東京。

*2:二人は蓮實重彦つながり、先輩後輩関係だったはず。

*3:これは安易すぎるかもしれない。地方こそ人の手を加えなければいけない場所かもしれない。