鈍獣

『鈍獣』を観た。細野ひで晃監督、官藤官九郎脚本。

奇妙な映画だった。実際は演劇だったというが、どういう風に演出されたのだろう。演劇を観にいくことは全くないのだが気になった。

物語は凸川を探しにやってきた週刊誌編集者の静に、江田たちが凸川が行方不明になったあらましを語るという形で進む。相撲が中心の町に凸川こと凸やんが帰ってくる。同級生のホスト江田と警官の岡本は彼を迎え入れるが、特に共通の話題もなく、昔話をしてみるが凸川は全く憶えていない様子。なんとなく気まずい空気が友人たちに流れる。しかし程なくして岡本は凸川が週刊誌に「鈍獣」と題した小説を書いていることを発見する。しかもその内容は自分たちが起こしたある事件のことであった。江田と岡本は凸川に小説を書いているだろうと詰問するが、まさか僕が小説を書くなんて、と答える。ひたすら続く連載、暴かれていく過去に恐怖をなした江田は岡本、愛人の順子、コスプレホステスのノラと凸川殺害計画を実行に映す…。

まずこの映画が奇妙なのは、凸川を殺害するに至る原因の事件にある。江田たちは川に架かる鉄橋で凸川と、凸川に似ているために凸やんと当時呼ばれていた町の西の横綱を、競争させる。しかし岡本が時間を間違え電車が対岸からやってきてしまう。電車から逃げる凸川に反して、西の横綱の凸やんは電車に向かって勢いよく走っていく。電車は止まり西の横綱はまわしを残して消えてしまう。映画ではこのシーンはアニメで描かれている。確かにこれは江田たちが犯した事件である。しかしそれが小さな町で起きた事故だとしたら大した事件だと思うのだが、町の人々の反応といったものには全く触れられない。物語の終盤で凸川を実は西の横綱の凸やんなのではないか、と推理する江田の様子を見る限り、この事件そのものが本当にあったことなのだろうかとも思えてくる。しかし一方で凸川はこの事件を実際に起きたことだと認識しているようなのだ。

次に凸川の鈍さについてである。江田たちは殺害計画を実行に移し殺鼠剤を飲ませたり、トリカブトを食べさせたり、車でひき殺して森に埋めたりする。しかし凸川は江田のホストクラブにやってきて「もう(店は)おしまい?」とエレベーターに乗ってやってくる。しかしこの台詞を私は「もう(おれを殺すのは)おしまい?」といっているようにしか聞こえない。精神的にも肉体的にも鈍い男として凸川は語られるが、物語の終盤、実は小説を書いていたとを岡本に白状する。だとするなら本当に凸川は鈍い男なのだろうか。凸川が「鈍獣」の作者であるならば、小学生の時の事故を覚えていることになる。だとしたら昔話に付き合うことも出来る、正直に江田たちに小説を書いているとさっさと明かすこともできる。

脚本の官藤官九郎は映画公式サイトにおいて「この作品を書くにあたって意識したのは「分からない」ことの怖さです。その象徴が凸川という男。殺しても殺しても死なない肉体的な鈍感さ。殺されかけている事に気づかない精神的な鈍感さ。なんで死なない?分からない。なんで気づかない?分からない。善意か悪意かも分からないものに追い込まれる人間を描きたかったのです。出来上がった作品は、終始ひどい話なのに観終わった後に希望が残るんです。」といっている。だから私がいくらこの奇妙さを分析してもわからないし、それもあまり意味のないことだろう。この奇妙さを感じるのがこの映画なのだから。
 
ここからどうでも良いことを書くが、凸川が小説を書いているシーンの場所が三鷹天命反転住宅である。この家のことは知っていたが、公式サイトによるとそのコンセプトは「死なないための家」だそうだ。確かに凸川は死なない男であるからピッタリな撮影場所だ。サイトの最新ニュース欄にはこの映画の告知がなされいた。ここを日常生活の場所として、初めからためらい無く過ごすことがおそらく凸川に出来るのだろう。通常の人間の身体感覚とは違うのだ。
下記の本の表紙に映っているのが天命反転住宅である。この本では天命反転住宅の体験についても書いてあるようだ。持っているけど、まだ未読の本なのだけど。

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