カミュ 「死を期待する」と「アルジェリア戦争」について

 アルベール=カミュについてもっと知りたいと思い井上正著の『人と思想 アルベール=カミュ』という本を図書館から借りてきた。私は実はあまり入門書というものは好きではない。出来ることならその人の作品を読んで、その考えを知りたいと思っているからだ。しかしそれはあくまで理想であって、実際読んでみると勉強になるものだということも経験上知っている。たぶんこういう考えを持ったのも、大学時代ひたすら原典を読むようにしろと言われたからだろう*1
 以前この記事で『異邦人』に出てくる「愛する者の死を期待する」という言葉が理解出来ない、と書いたがそれに対する一つの答えのようなものがこの本にあった。井上正はカミュにとって父の戦死による不在、自らが結核を宣告されたことによって死という不条理を考えざるを得なくなったという。そして次の文章を引用する。この文章、井上正は「若書きのエッセイ」と書いているだけで引用文献はわからない。

頭をもちあげると飛行機がまたやってきた。それをあんまり長い間ながめていると、疲労が襲ってくるのであった。人々は、あいかわらず、とげとげしい口調で話をしている。全力をあげて、彼らの将来を希望という名で粉飾しているのだ。ある人は、晩になると熱が三十八度五分ではなく、三十八度になったと言う。しかし第三段階の病状であった患者が七十歳で死んだという者もあった。結局、彼らが恐れているのは自分の死だけであって、逆に、未来というものが先のばしになっている他人の死を願っているのであった。

ここで書かれているのは健康な人ではなく、結核患者の願いである。だから参考になるというのは違うのかもしれない。しかしカミュにとって死の観念はこのように捉えられていることはわかる。死を現実として捉えている人にとって愛すべき人、身近な他人こそ未来が先のばしになっている存在なのだろうか。だが『異邦人』のムルソーはカミュではない。ムルソーが引用文のような考え方をするのか、といえばおそらくしない。その辺りは分けて考えたい。


 こちらの記事ではカミュがアルジェリア独立についてどのように考えていたかわからないと書いた。井上正によればカミュはアラブ人の独立国家を築くというような考えを持っていたわけではなく、生活の質の向上や権利の回復といった所に主眼を置いていたようだ。アルジェリア戦争においてもカミュの立場は微妙なものであったようだ。というのもカミュにとってアルジェリアは父の代から入植した場所でありアイデンティティでもあった。それゆえアルジェリアの独立は考え難いものだったらしい。その立場には批判もあった。もちろんカミュは戦争におけるフランス軍のアラブ人テロリスト掃討戦、アラブ人のフランス人に対するテロにも反対であった。そんな彼がアルジェリア戦争に求めたのはフランス人とアラブ人による対話であった。実際戦争の終結は双方の対話によって導かれた。結局アルジェリアは独立するのだが。
 カミュはアルジェリアの問題において複雑な立場であり、私たちには理解が難しい問題のようだ。

アルベール=カミュ (Century books―人と思想)

アルベール=カミュ (Century books―人と思想)

*1:しかもこの場合、翻訳ではなく原語で読め、という意味だった。私は翻訳でさえまともに読めはしなかった。そんな私がこの言葉に縛られているのも馬鹿な話なんだけど…。