『buy a suit スーツを買う』『TOKYOレンダリング詞集』

『buy a suit スーツを買う』併映『TOKYOレンダリング詞集』を観た。
市川準監督作品。急逝のため上記の作品が遺作となったらしい。私は市川準の映画を観たことはない。知っていたのは村上春樹原作の『トニー滝谷』という映画を撮ったということだ。それを知ったのはネット検索で大西巨人についての記事を読んでいる時だった。個人ブログに『トニー滝谷』を観にいったら大西巨人が観覧していたと書かれていた。私は大西巨人が映画を観に行くのか、しかも『トニー滝谷』という何だか洒落た題名の映画を、と思った。そして『トニー滝谷』を調べ、それが村上春樹原作であり、監督が市川準であることを知った*1。さきほど簡単にネットで調べてみたが、CM演出家から出発しているらしい。私が観たことのあるCMも数本あった。『あしたの私のつくり方』の監督でもあるらしい。当時成海璃子が気になっていて観にいこうか迷った作品だ。結局観に行かなかったが*2。私はそうやって初めてこの監督の遺作を観ることになった。

この物語は兄から届いた手紙を頼りに妹が、東京秋葉原に降り立つところから始まる。映像はそれほど鮮明ではない。一般のビデオカメラで映し出される秋葉原はとても雑然としている。私は自室をカメラ付きケータイで撮ったことがある。ケータイの画面に映し出される自室は、肉眼で見るよりまとまりが無く見えた。あの感じがこの映画にある。そしてカメラに拾われる、電車の走行音、人々の会話が一層雑然さを引き立てる。カメラは遠くから出演者を捉えようとする。出演者たちの姿と会話をあっさりとさえぎる人と音。出演者たちは人混みと風景に溶け込み、その存在感を消してしまったのかのようだ。そして気がつく。そうか、私はこのカメラが捉えることの出来ないもっともっと奥の方、そういう場所で生活しているのだと。
妹は兄を見つけ出す。その変わり果てた姿に妹は愕然とする。そして兄は妹に語る。今の日本はひどい。企業のトップは金を貯めこみ、人をこき使うと。妹は兄に、今のお兄ちゃんが言っても全く説得力がない、と言い返す。
妹は兄に、以前兄と付き合っていた女性を会わせようとする。その道すがら兄は街頭インタビューを受けることになる。兄は今の日本経済をどう思うか。そして格差を解決するにはどうしたらいいかと訪ねられる。兄は、昔から格差はあった、と答える。そして解決策はみんなが同じ方向に向かうからいけない。遺伝子を移動させなければならない、と答える。その脈絡の無い回答に当惑するインタビュアー、以前の兄と同じ姿だとその横で笑う妹。
飲み屋で以前付き合っていた女性と食事をする妹と兄。そこで兄はもう一度一緒になろうと女性にいう。続けてオレは一旗挙げる、うなぎの頭でスープを作り屋台をやるのだと。
これが兄のいう、人とは違う方向なのだろうか。むしろここで映し出される姿は成功を願う起業家とさして変わらない。どうみても兄のいう、同じ方向へ向かう人々なのだ。それが女性を安心させるための方便だとしても。しかも女性に現実的ではない、とあっさり言い返されてしまう。
この映画を観終えた時、全てが投げ出されどこまでも広がっているかのように見える世界に不安を覚える。これが私たちの生活している場所なのかと。しかし一方で妹が兄を捜しだすように、一見頼りないながらも誰かとつながっていることに安心を得ることが出来る世界なはずだ。しかしもしそれさえも無くなってしまったとしたら。それは間違いなく孤独だ。私たちが体で感じる世界はこのビデオカメラのように世界を分解させない。しかしもしこのビデオカメラのように世界が分解されて観えるようになったとしたら、それは孤独なのだと思う。

『TOKYOレンダリング集』は少し加工された映像に一言二言の言葉が浮かびあがるというものだった。そこに映る人々は何だかとてもつまらない。そして言葉は叫びともつぶやきともわからない、あえていうなら道路の案内標識のようにあった。無視しているわけではないが見ていない、例えば自分の心の声のような内側の言葉だった。

*1:ほとんど村上春樹の小説は読んでいるつもりだったが、「トニー滝谷」といわれてもピンとこない。『レキシントンの幽霊』に収録されているらしい。読んでみようか。

*2:『神童』:http://d.hatena.ne.jp/bullotus/20070425/p1 を観た辺りから成海璃子熱は冷めていった…。