エレジー

『エレジー』を観た。
友人と神保町を散策している時、アダルトビデオ専門店を見つけた。店内を自動ドア越しに覗くと老人がいた。私はその時なんだかとてもうんざりした。老人にではない。年をとっても性欲の処理をしないといけないというその現実にだ。
 
中年を越えた大学教授の肉欲に対する告白からこの物語は始まる。この大学教授、肉欲が抑えられないらしい。
そんな彼は自らの教え子にその肉欲を向ける。セクハラにならないように慎重に。そして教え子も男の肉欲に迎え入れる。教え子を演じるのはペネロペ=クルスである。
しかしある時、男は自らの質問に対する女の答えによって嫉妬を覚えるようになる。他の男、自分よりも若い男が彼女を奪ってしまうのではないか。彼女も歳の離れた男より若い男を選ぶ日がくるのではないか。男はひどく懊悩する。しかし男はセックスフレンドと関係を持ち続けていたりする。
女は男に性交に伴う快楽ではなく未来に対する約束を求める。しかし男はごまかすばかりである。一方、女は男に体を愛でられることによって快楽と、自らの肉体の美を知ることになる。
そして二人は結局別れることになるのだが…。
この物語の終盤、女に肉体の美が欠損するという事態が生じる。女はひどくその事態に動揺する。この事態を見ながら女性器を失うという女の恐れを改めて知る。同時に私はそれだけで男性が女性を女性としてみなくなるということはないともいつも思う。この性的な部分の欠落から考えなければいけないことは多い。例えば現在放送中の山田太一脚本『ありふれた奇跡』でも子どもができないという性的な問題が扱われている。
この欠落を補おうとすること、それがこの物語の結末だったのだろうか。たぶんそうではない。男は誰よりも女を失うことを恐れていた。それは補うのではなく共によりそい感情を共有するというかたちで示される。たぶんそれが恋愛、美の一つのかたちなのかもしれない。