群像12月号『関係の原的負荷― 二〇〇八、「親殺し」の文学』

 11月26日付け朝日新聞朝刊の斎藤美奈子による文芸時評は「2008年の批評」と題されている。選ばれている作品は水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』、宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』、加藤典洋『関係の原的負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学』となっている。

 時評内では主に水村美苗の『日本語が亡びるとき』について言及されている。面白いのはネット界隈での一連の賑わいに触れている点である。これには思わず早朝から吹きだしてしまった。というか今回の文芸時評そのものがかなりユーモアに溢れていて、それが他のブログでは、問題のごまかしだといわれているのには笑った。でも斎藤美奈子の文芸時評をずっと読んできて思うが、割とこんな雰囲気なんだと思うのだが。それはさておき斎藤美奈子によれば『日本語が亡びるとき』の議論の分かれ目は第七章「英語教育と日本語教育」であるらしい。ここにおいて水村美苗は国民の一部をバイルンガルに育て、そして日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くといっているらしい。これが何を意味するのか私にはいまいちピンとこない。まぁ『日本語が亡びるとき』を読んでいないから、この一文だけでわかるはずもないだろうけど。現状近代文学が読まれているかは別として現状こんなものではないのか?というか近代文学ってなんなんでしょう。また斎藤美奈子は文学者は日本語を守る方向に、言語学者は日本語を開く方向を、主張すると書いてる。これもこの議論に関する基本知識がないからなのかわからない。そういうものなんですか…。この時評を読みながら、そして今書きながら小説を一応今まで読んできたけど、小説そのものについて考えて考えてきたことがなかったことに気がついた。私が感じたこと、考えてきたことはその読んだ本それだけについてなのだ。まだまだ議論の叩き台になる本を読んでいかなければいけないようだ、知っていたけど。
 さて斎藤美奈子は次に宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を取り上げている。斎藤美奈子宇野常寛の問題意識は示唆に富み、刺激を受けたという。他方、二つの点において驚いたようだ。それはまず批評の基準点を世間的に若手の東浩紀に据え、歴史の枠組みを参照するのは80年代までとし、そこから95年前後を「古い想像力」、01年以降を「新しい想像力」と呼び5年間で世界が変わったという言説。次に小説、漫画、アニメ、ゲーム、テレビドラマを「物語」であるとしていっしょくたに論じることである。宇野常寛が新潮で連載している『母性のディストピア―ポスト戦後の想像力』を読んでみると、斎藤美奈子による前者の指摘には自覚的なようで、戦後という枠組みから物事を考えようとしているのはわかる。実際そうなるかわからないけども。
 そして斎藤美奈子が最後に取り上げるたのは加藤典洋の『関係の原的負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学』である。この批評で扱っているのは主に村上春樹の『海辺のカフカ』と沢木耕太郎の『血の味』である。意外なのは沢木耕太郎の『血の味』を取り上げていることである。これを知ってがぜんこの批評に興味をもった。そして昨日早速読んできた。そこで加藤典洋沢木耕太郎に興味を持つようになったきっかけが述べられていた。そこでは加藤典洋沢木耕太郎に対する見解が面白い。私は沢木耕太郎の本を好きだというが、あまり彼の作品を読んでいないし、沢木耕太郎自身についていえば何も知らないに等しい。沢木耕太郎がペンネームだということも知らなかった。さて批評自体をざっと読んだが社会学、現象学、を使って父と息子の関係性について書かれていた。また『寄生獣』も大事な議論の材料として扱われていた。ちょっと驚いたが加藤典洋がそういうのを扱うって聞いたことがある。親子の愛の有償性/無償性について議論は結構ピンとくるところがある。これは個人的にも必要な議論だと思う。まぁ理屈は半分も理解できていないが。しかもこの父と息子の関係性についての議論は、先の宇野常寛の『母性のディストピア』に絡んでいく気がする。
 さて文芸時評の終わりに斎藤美奈子は時代の転換期における批評はマッチョになるのかと皮肉を述べている。なんだかそんなこという辺りがマッチョじゃない感じである。でもこういうこと書くっていうことはタフでしょう、どうみても。