落下の王国

 『落下の王国』を観てきた。
 『ザ・セル』の監督作品だということで興味を持った。『ザ・セル』の美しくもグロテスク、醜くも麗しい、衣装やセットの映像に魅入られたからだ。とはいえ物語の気持ち悪さも相まり、果たしてこれを「美しい」と形容していいものかと考えたりもした。
 下半身不随の男が少女に物語を語る。その物語に二人の欲望と日常が絡み合う。そして物語は錯綜する。この映画で男が語る物語、それは少女とのみで共有された物語である。男は語り手として、物語を創っていく。ただし、行き当たりばったりに。そして少女は、物語の唯一の聞き手として、物語に介入する。
 私は冒頭において、男が適当に紡いだ物語にあまり興味を持てなかった。むしろ男がなぜ下半身不随になったのか、少女が負った腕の骨折についてなどに興味を持った。特に少女が負った骨折の固定方法に終止違和感をもった。そんなつまらないことを気にかけながら、彼らの日常に波風が立ちはじめることによって、私が冒頭持った二人の来歴は明かされはじめる。そして男の語る物語は豊潤にかつ残酷に動き始める。終盤には男の暴走によって物語は有らぬ結末を迎えようとするのだが・・・。
 
 男の語る物語は少女によって与えられたものである。そこに何も物語もありはしなかった。そこに少女はきっかけを与えた。しかし男の語る物語は、自身の状態から悲劇性を備えている。それをユーモアとして、物語の常套句として利用する。それに対して少女もそのように受け止める。しかし二人は物語が自らの生活そのものだということに気がつきはじめる。少女はそれゆえに物語に介入し、修正を始める。そして男の悲劇性を備えた物語に、男に起きた悲劇すなわち人生を前向きな物語として創り変えていく。
 ああ、これがいわゆる「物語」の力なのかと私は思った。この映画は物語そのものを扱った映画だったのだ。私は「物語」の力に強く影響を受けている自覚はある。ただしそれはどこまで誰に通用する力なのか。
 
 ここで男が語る物語は映画ゆえに映像化されている。しかしそれは男にとって当然のことである。男にとって物語を創ることは、映像化することであったのだから。