イントゥ・ザ・ワイルド

『イントゥ・ザ・ワイルド』を観てきた。
他の映画を観にいった時、予告を眺めながら「この映画は観にいかないだろうな」と見当をよくつけている*1。『イントゥ・ザ・ワイルド』もそう見当をつけていた作品である。理由はいわゆる「自分探し」を連想させるものだったからだ。私はそういう青臭さを感じさせるものを知らぬ間に忌避するようになっていた。自分探しが個人の実存に関わる問題であったならば良かったのだが、それが「自分探し」として一つの方法になり、目的となってしまっていることに気がついた時、私はそこからなるべく距離をとろうとしていた、そこに格好悪さを見つけてしまったから。
そのように見当をつけていた『イントゥ・ザ・ワイルド』を沢木耕太郎は朝日新聞紙上の映画コラム「銀の街から」で取り上げていた。私はこのコラムで取り上げられた作品は観にいくと決めている。
沢木耕太郎はこのコラム内で、予測を裏切るような作品を取り上げる。だが取り上げられる作品を観終えた時、そこに共通のテーマを見つけることが出来る。それは二つあるように思われる。すなわち「旅」と「失われたもの、失われようとするもの」を映し出したものである。そもそも物語には普遍的にこの二つが存在する、ということもいえるのかもしれない。この二つを経験した以前以後を描くこと、それが物語なのだと。それが物語の真理かどうかはわからないが、沢木耕太郎がコラムに取り上げる作品だけでけでなく、彼が描いた作品を多からず読んできた私には、旅と人や時代の黄昏を感じずにいられない*2。そんな沢木耕太郎が、特に「旅」というテーマを持つ『イントゥ・ザ・ワイルド』を取り上げるのは当然といえるのかもしれない。
そんな沢木耕太郎が早稲田大学の学生祭において「旅する力」と題して講演を行ったらしい。その講演については死にかけた!初めて×インド×二人旅「沢木耕太郎講演会 旅する力 @早稲田祭」日々徒然レポート「*vol268」を参照しました。講演では旅をすることで出会う事態に対処出来ることが、生きる力になる。経験が満たされる時、自分がどのように変わるのかを理解できなければ旅の意味がないのでは。「自分探し」等々について語ったそうです。ちなみにその講演では『イントゥ・ザ・ワイルド』と『モーターサイクル・ダイアリーズ』を紹介したらしい。この二つの映画とも題名こそ変わってこそいるが長年続いている上記のコラムで取り上げていたものだ。また撮影監督も同じのようだ。
 
学業優秀のうえ裕福な家庭で育ったクリスという青年がアラスカの大地で死を迎えた。アメリカのマスコミはその死について大きく取り上げたらしい。そしてジョン=クラカワーというジャーナリストにして登山家がその謎の死について挑み一冊のノンフィクションを書き上げた。それをショーン=ペンが映像化したのが『イントゥ・ザ・ワイルド』である*3
クリスという青年の旅を追いながら、そのあいまあいまにその妹カリーンのナレーションによって旅の動機を語られる。その旅の本当の意味は兄にしかわからないと断わりを入れながらも。そしてクリスの旅の過程とそのナレーションによってまず明らかになる旅の動機は、自らの出生の秘密に関する親との確執である。クリスは純粋で道徳に厳格であることが妹によって語れるが、それがどうして旅の動機になるのだろうか、私にはイマイチピンとこない。一応考えてみると、その親が金や名誉、体裁を求めて生きているということに対する、クリスによる人生のアンサーが旅でありアラスカで自給自足に生きるということなのだろう。でもそれだと家出した小学生みたいな気がして…。しかしむしろその後に妹によって語られる、兄クリスが元々持っていた好奇心こそが本来の旅の動機ではないのかと私は思うのだ、結局小学生みたいだが。この二つの旅の動機は劇中における比重において親との確執にほぼ焦点を当てている。それが私は不満なのだ。その不満は沢木耕太郎のコラムにおいても「無理があるのでは」と語られる。沢木耕太郎はやはり旅の動機は宿命的に持っていた「旅という病」によるのではと語られる*4。私が沢木耕太郎と同じように「旅の動機」をその人本来のものとして考えてしまうのは、旅を沢木耕太郎が描いた『深夜特急』を元にして考えてしまうからだろう。私の「旅」の概念は『深夜特急』なしに語れない*5
さて物語は終盤においてクリスに「旅という病」の治療法に気がつかせる。それは旅をしながらもずっと所持していたのか、旅の途中で手に入れたのか、わざわざ自給自足の生活に持ち込んだ本である。それはトルストイの本のようであった。ちなみに彼は劇中、何度もトルストイや他の文学者の言葉を引用している*6。私はトルストイの『人生論』を読んだと思うけど、何一つ覚えていない*7。しかしだからこそである。ここで主人公の発見について私は共感できるのだと思う。彼はトルストイの本からある言葉を読み上げる。私はその言葉を大意でしか覚えていないのだが、こういものであった。「人生の伴侶をもらい〜生活する」*8。旅の果てに読書から旅の終わりのきっかけを得ることに文句をいうつもりもない。むしろここに私は非常に意味を感じる。おそらくだが旅に出る前にクリスはこの本を読んだことがあろう、別に読んでいなくてもよいが。重要なのはクリスは旅においてあらゆる経験をしたことで、このトルストイの言葉を実感することできたということなのだ。知識に経験が追いついた時、その言葉の本当の意味を知る。そのものの本当の名前と意味を一致させたのである。
ただし私の記憶によれば、晩年トルストイは浮浪者として餓死したのではなかったか。クリスはこの事を知っていただろうか。

私に旅は必要だろうか。そう考えることがある。今のところ、私には旅が必要ではないようなのだ。憧れこそあれ、私が求める止むに止まれぬ旅への衝動がないのである、今のところは。

私が読んだのは岩波文庫の『人生論』だった。

*1:どうでもいいけどこの各作品の予告の終わりに「感動のロードショー」だとか「切ないロードショー」といったコピー見るたびにうんざりさせられる。しかも少し工夫しましたっていう体裁がさらに恥ずかしい。どうにかならんのかな。

*2:具体的にいえばベタになるが『深夜特急』『破れざる者たち』になる。

*3:『イントゥ・ザ・ワイルド』公式サイト:http://intothewild.jp/top.html

*4:『銀の街から』:http://doraku.asahi.com/entertainment/movie/review/080917_2.html ただしバックナンバーは一定期間のみしか閲覧できないようだ。

*5:他に椎名誠を抜きにしても語れない。この二人による「旅」についての物語を読むことによって、私は外の世界に気がついたと思う。しかし成長するにつれ、私は外の世界より内の世界を見るようになっていった。内向きになったのは平野啓一郎の『日蝕』を読んだことがきっかけかもしれない。もちろんこれらの作品だけではないし、また読書経験だけが私の全てを決定付けるわけではないのだが…。ただ外があることを知った上で内を向くことと外を知らずに内を向くことに大きな差がある。私はこの点で幸福であった。

*6:トルストイ以外は覚えていない。調べてみるとジャック=ロンドンやソローだそうだ。All's Right with the World!「イントゥ・ザ・ワイルド」参照:http://blog.goo.ne.jp/kazamidori-v3/e/7bdca4616723ec67b9143bb6fba82760 読んだことないなぁ。

*7:思うのだがセネカなどが書いている『〜について』など人生論みたいな本は「なるほど」といって読むのではなく「そうだよね」って共感しながら読むものだと思う。訓戒というのは役に立たない、経験上。

*8:検索してみるとトルストイの「家庭の幸福」からの引用で「人生の幸福とは生涯の伴侶をもらい子供と一緒に暮らすこと」だそうです。隼がある毎日「イントゥザワイルド」]参照:http://kuniks1300r.blog60.fc2.com/blog-entry-14.html