ゼロ年代の想像力

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』を読んだ。
私が宇野常寛氏について知ったのは去年である。その時期、大学の演習において平野啓一郎について発表したのだが、友人は宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』について発表をしていた。まだ『ゼロ年代の想像力』は連載中であったがその内容の一端を垣間見ることが出来たのであった。その内容とは、「セカイ系―決断主義―ゆるやかな(終わりのある)つながり」という『ゼロ年代の想像力』の骨子であった。
現在の物語が「セカイ系」の物語とは違うところまできているにも関わらず「セカイ系」までしか批評が追いついていないということに対して著者は、憤りを隠さない。特に東浩紀を矢面に立てて批判していく。とはいえ、この宇野常寛氏が提言したいのは、「セカイ系―決断主義」の袋小路から、実は豊かな日常、終わりのあるゆるやかなつながりというコミュニケーションである。そしてそれが今の自由な時代だからこそ可能なのだ、と彼はいう。
と私はこの本を非常にポジティブなものとして読んだ。もちろん「ゆるやかなつながり」へ至るまでに、「セカイ系」に耽溺する者に対して容赦ない指摘もある。特に自己言及を行ったうえで「セカイ系」を楽しむこと、つまり免罪符を獲得した、「草食恐竜のフリをした弱い肉食恐竜」に対する指摘にはグサリとくる。
また著者の批評対象の範囲の広さによって著者の注釈がかなり面白い。特に「青山真治」の項目などが読み応えあり。
 
しかしゼロ年代って一体何だったのだろう、という私の反省は終わっていないし、省みる気にもなれない。「まぁいいんじゃん、もうすぐ二十一世紀だし」というカップラーメンCMの真似をしていた小学生から十年たち、ゼロ年代を学生として過ごした私。今思えば高校生活こそ「決断主義」そのものだったのかもしれないし、今年で終わる学生生活こそ「ゆるやかなつながり」であったのかもしれないのだ。そしてその先のコミュニケーションのあり方とはなんであろう、と考える機会の渡してくれる本であったように思う。