スカイ・クロラ

 『スカイ・クロラ』を観た。

 冒頭、空の格闘戦において黒豹が描かれた戦闘機が畏怖の対象として描かれる。そしてその戦闘機は黒豹の鳴き声のような旋回音を上げながら空に消えていく。

 沢木耕太郎氏の批評によれば、氏はこの映画を観ながら、広大で空疎な飛行場を観ながら、ある「既視感」を抱いたそうである。その「既視感」とは氏が子どものころによく観た「特攻隊物」の戦争映画に描かれていた世界感そのものであったそうだ、ただし特攻隊員とキルドレたちの「死」の意味の違いにおいて、間違いなく一線を画している点を除いて。

 この映画で描かれる「ショーとしての戦争」は大澤真幸氏が言うところの「カフェイン抜きのコーヒー」というものなのだろう。大人たちは安全なところから危険を眺め、生を確認する。そしてそこで戦うのは「カフェイン抜きのコーヒー」そのもの、死のない生を生きるキルドレたちだ。この映画の世界では「カフェイン抜きのコーヒー」はキルドレたちの「便宜上」の死よって上手く機能しているようである。一方、死のない生の意味を知ったキルドレたちは「カフェイン有りのコーヒー」を求め、そして「カフェイン抜きのコーヒー」に意味を見出そうとする。それは一見矛盾しているかのように見える考えではあるが、キルドレにだけ可能な、一つの希望なのかもしれない*1
 激しい空中戦が描かれるスクリーンを、まさに「ショーとしての戦争」を眺めながら、足の震えがとまらない大人としての私はこのメタ構造に対してどの顔すればよいのかわからない。
 
 だとすれば、しかし、ラストシーンにおいて新たなパイロットを迎えいれる一人のキルドレの微笑の意味は、覚悟をした者の顔だということができるのかもしれない。
 

*1:とはいえ、それはスクリーンを眺める私たちの生活と生に対する一つの答えであることは間違いない。