アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 フィリップ=K=ディック著『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ。

 映画『ブレードランナー』がSF映画の傑作だということを何かの本で知り(椎名誠のエッセイだったろうか、はっきりと思い出せない)今でも使っているモノラルのテレビデオでBSで深夜?放送されていたものを録画して観た記憶がある。しかしその記憶はこの映画に対して好意的なものではなかった。まずストーリーが全く理解できていなかった(まぁよくあることだ)。なぜ理解できなかったのか。それは映画冒頭で空飛ぶ車「ホバー・カー」が変な煙を出しているところを観て何だか気持ちが冷めてしまったからである。あの一気に気持ちが冷めていく感じは今もありありと思い出せる。今思えば大したことはないような気がするのだが、あの時は若いから許せなかったのだろう、許容する寛容さがなかったのだ。そして最大の原因は再生したテレビデオの画面仕様が暗すぎて映像がよく観えなかったことにある。映画通の友人にこの事を話したら相当批判された。彼は『ブレードランナー』がSF映画の傑作だといっていた。そのころ俺は『スター・ウォーズ』が最高だと思っていたのでなおさら批判された(この友人は『スター・ウォーズ』は嫌いらしい。)。別の機会にその友人がリドリー=スコット監督の陰影の使い方が素晴らしいという話を聞かされた。例に『プレデター2』を挙げていた。そういえば家のテレビで『プレデター2』を観ようとした時、何が起きているかさっぱりわからず観るのを諦めた記憶がある(だから俺にとって「プレデター」はシュワちゃんとの戦いで止まっている)。そういうわけでほとんど『ブレードランナー』という映画の素晴らしさが理解できない原因は俺にあったわけである。まぁ「ホバー・カー」の煙は俺に非が無いような気もするけど…(新しく発売されたものはこのシーン改良してるのでしょうか?)。この『ブレードランナー』を観た経験ていうのは俺には大きな経験だった。それは皆が良いという作品を理解できなかった、という経験だったからである。自分にモノを見る目がないという決定的な烙印を押された気がした(実際そうだと思う)。なんか『ブレードランナー』がフォークト=カンプフ検査みたいな。使い方が間違っているけども。共感と迎合は違うよね。迎合と審美眼ももちろん違うけど。
 そんな経験をしても、たくましく生きていかないといけない訳で、小説の方を読んだりする機会が出来たのである。たぶんその原因はこの物語が「共感」の話だ、という文章を誰かかが書いたブログで読んだからである。それにいわゆるSF小説の古典だから読んでおかなくてはと思ったのでしょう。「共感」という事についてどうして興味がわいたのかは忘れた。結局後者が大事なのである、「そこに古典があるから」である。


アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 
 人間かアンドロイドか判別するフォークト=カンプフ検査。この検査のやり取りの珍妙さ。質問してる間に襲われそうだが、この検査がこの物語の進みの手綱を担っている。殺す前に検査します、って変な緊張感なんだよな。
 アンドロイドとのベッドシーンがあるが、読み進めながらなぜか保険体育の教科書に載っていた男性器と女性器の断面図が思い浮かんだ。一応アンドロイドは有機物で体を構成しているらしいが、そうなると設計図あるのかなっと思ったらあの理解しにくい断面図が浮かんできた。これがあまりに不意だったので笑った。これが今回の読書の一番の収穫だった。というかアンドロイドに性器をつける理由がわからない。もうどう考えてもそれ目的だろうが、物語のなかでは法律によって規制があるらしい。うーむ。
 結局下半身の話題になってしまった。