複製技術時代の芸術作品

べンヤミン著『複製技術時代の芸術作品』を読んでいる。

ざっくりとまとめてみた。芸術は魔術、そして宗教の儀式としてその真性さを持っていた。要するにアウラがあったのである。しかし複製の登場によって、芸術の危機が訪れる。芸術はこの危機に対して「芸術のための芸術」という教義を持ち出した。これを純粋芸術という。この純粋芸術はいかなる社会的機能、具体的テーマを拒むものである。それゆえに純粋芸術にもアウラは欠如しているのである。
 
「芸術が政治に基づくことになる」、とベンヤミンがいうがそれはどういうことなのだろうか。ベンヤミンは映画、というか撮影技術に政治の変化を見出しているようだ。展示価値に芸術の重みが移動する。その複製技術による展示方法の変化を政治家が利用することを民主主義の危機と考えている。議会が政治家にとって観衆であったところを録音・撮影機器の発達によってその機器の背後にいる聴衆のみに意識を向けることになる。「それによって劇場がさびれ、議会は荒廃する」*1。そして最終的には機器の背後にいる聴衆が、機器に映る「誰か」を選ぶようになる、とベンヤミンはいっているのか。これがはてなダイアリーのキーワードに載っている<メデイア論者としてのベンヤミン>ということなのだろうか。う〜む。

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

*1:p635(11)より引用。