ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観た。
映画は不快にさえ感じる金属音とともに始まった。この物語の不吉さを語るにふさわしい始まりだった。しかしこのおどろおどろしい音楽が上映中に、電子音が混じった馴染みのあるものに変わっていった。エンドロールに音楽スタッフを探したが、その場では誰だかわからなかった。調べてみると作曲者はレディオヘッドのギター、ジョニー=グリーンウッドであった。なるほど馴染みがあるはずである。レディオヘッドは最近よく聴いていたからだ。しかしメンバーはトム=ヨークしか知らなかったし、曲もトム=ヨークが作っているものだと思っていた。調べてみるとジョニー=グリーウッドという人は作曲家として活躍しているようだ。このジョニー=グリーンウッドの音楽がこの物語の暗闇をより奥深くしている。
劇中、男たちが石油まみれで働く様子をみていると、石油の匂いがこの映画館に漂っているかのような錯覚を覚えた。現実には、なぜか私がいた映画館は、ぺペロンチーノの匂いがした。そして途中からチョコクリスピーの匂いに変わった。ぺペロンチーノの匂いは、石油の匂いに似ていなくもないと思った。
主人公プレインビューが食べるステーキは黒い。これはオイルの暗示なのだろうか。
プレインビューは自らの手で、全てを振り払っていく。そのさまは狂気としかいいようがない。省みない。ただし、育てた息子を自ら振り払うとき、省みる。それが彼の唯一見せる後悔なのか。とはいえ欲望とは人間の本性なのだろうか。
プレインビューの欲望*1。この欲望の果てにプレインビューが見出したものは徒労だったのか、それとも徒労をもたらすものを自ら振り払うことで、徒労そのものを否定することなのだったろうか。終幕に「終わったよ」と語るプレインビューは、欲望の成れの果てに何も見出せず、老いた小さな背中をこちらに向けているように、私には見えた。
(追記20080520) プレインビューの元に弟を名乗る男が現れる。男はいう。「みんな生きるのに必死だ」と。そしてひどく当たり前のことに私は気がついた。成功者や、金持ちでさえ、「生きるのに必死だ」ということを。特にプレインビューはそれを体現する男だから、男がそれをプレインビューに語るとき、男の被害者ぶりにかすかな怒りを感じた。もちろん男に訴える権利はないとはいわないが…。
ちなみこの映画前半ほとんど暗転しないで進む。後半から少し二回ほど暗転したかと思う。
後半に登場するプレインビューの屋敷は美しい。そしてむなしい。

*1:ここで『地獄の黙示録』のカーツ大佐を思い出してしまう。しかしカーツ大佐とプレインビューとでは違った欲望ではないか。カーツ大佐の欲望は全てを支配する欲望なのでは。欲望に理性が支配されているカーツ大佐とプレインビューの欲望とでは何かが違うように感じるのだが…