ノーカントリー

『ノーカントリー』を観て来た。容赦のない映画だった。
原題かどうかしらないが、冒頭に「NO COUNTRY FOR OLD MAN」と言葉が出てくる。今翻訳機で訳を調べると「老人のための国でない」と出た。私は「COUNTRY」をどのように日本語にするのか、非常に困った。だから今翻訳機で訳を見るまで、「老人に故郷はない」「老人に寄る辺はない」「老人に帰る場所はない」と訳していた。しかし直訳の意味はまさにこの映画そのものを表しているように思える。というか私の訳が意訳し過ぎている。

こじれた麻薬取引の現場を偶然見つけお金を持ち出した男。それを追うおかっぱ頭の暗殺者。そしてその暗殺者を暗殺するように依頼された暗殺者。暗殺者に追われる男を救おうとする老いた保安官。
おそらく「NO COUNTRY FOR OLD MAN」はトミー=リー=ジョーンズ演じるこの老保安官のことなのだろう。彼は冒頭に新聞に書かれていた残酷な事件に対して理解不能だと若い保安官を相手に嘆く。そして老保安官は理解不能な殺人の連鎖に巻き込まれていく。
この老保安官は理解できないことを嘆くが、それに年齢はほとんど関係ないだろう。誰もがわからない。現在起きている殺人事件の加害者を私たちがどれほど理解できるのか。それは裁判所で動機として語られるだろうが、それは後付けに過ぎない。おそらくそうだったのだろうという本人の論理で整合性を持って語られるだけではないのだろうか。
一方暗殺者は、老保安官が理解できないという殺人を、暗殺者独自のルールに則り行っていく。その殺人は、事件に直接関係ない者と通常私たちが思う人物さえも巻き込んでいく(とはいえ映画に登場人物として現れた時点で「関係ない」人物などいないといえばいないのだが)。この暗殺者のルールが、私たちが持つ道徳、倫理とは全く違うかたちで構築された高度なルールだとしたら…どう理解すればいいのだろうか(とはいえそれはコイントスであったりするのだから高度なルールではない。しかし高度なルールとは何だ?陪審員制度は高度な制度か。この世の法律が、道徳が倫理が、どう高度なのか。それを高度だと判断しているのは誰なのだ。ただ私たちは従っているだけではないのか)。全く私たちの知らないところから、現れるルールは誰に知られることもなく行使されているのではないのか。
老保安官は仕事を辞める。そしてみた夢を妻に語る。それは彼の父が、彼より先に火をくべて彼を待っている。そういう期待を彼が夢のなかで抱いたというのだ。火はくべられているということ。火を起こすのは誰か。火をルールだとするのなら、火をおこす者を老保安官は理解できないのかもしれない。それとも火はもっと高度で抽象的な概念を意味するのかもしれない。