『告白』についてもう少し書く。

昨日の日記についてさらに詳しく書き記す。
今日は町田康著『告白』について。ここから『告白』の内容について書くので、まだ未読の方は、気をつけてください。


町田康の『告白』について。私が強烈な印象を持った、そして今でも繰り返している問題について。ただし、以前読んだ印象についてのみ書き記す。なので間違いがあるかもしれない。

この『告白』は「河内十人切り」を題材としている。私はこの事件について詳しく知らない。ただこの物語において、主人公熊太郎がこの十人切りを実行する際、自分の妻である縫を殺す。ここが私にとって問題なのである。縫は寅吉という男と姦通している。もちろん熊太郎はこれについて知っている。しかし熊太郎はこれを問題としない、いや知っているのだが、妻の目を見てこう思うのである。この女は私の全てを見透かしている、その上でこのような行為をしているのだ、と。熊太郎はこう思い込むのである。熊太郎が十人切りを実行していくなか、縫のもとへ向かう。そして縫はその目でもって、やはり自分の全てを見透かすだろうと熊太郎は思うのである。しかし、猟銃を携えた血まみれの熊太郎を見た縫は、悲鳴を上げて逃げようとし、最後に「助けて、寅ちゃん」と姦通相手の名を叫ぶのである。これを見た熊太郎は、自分の全てを見透かす、(文中の言葉を使えば)「神仏より使わされたもの」ではなく、(やはり文中の言葉を使えば)「単なる淫乱」だったことを知る。そして熊太郎は縫に銃を発射する。私はこのくだりを読んだ時、笑った。腹を抱えて笑った。熊太郎の縫に対する想いは、ただの妄想だと片付けられたからである。その滑稽さといったらない。熊太郎は自分の思いを声にして縫とコミュニケーションをしたのではなく、その表情、目から縫とコミュニケーションをした気になったのだ。しかし、それは間違いであり、妄想であったのだ。この問題を考えていると、高校生の時に、現代文の授業においてある先生に厳しく指摘されたことを思いだす。その先生は、授業の前に前回の授業を復習するために幾人かの生徒に質問をする。その質問に答えられないと、放課後に居残りを命じられる(生徒はこれを嫌って必ず勉強をしてくる)。私はその先生に質問された。この詩が何を表しているのか?といったニュアンスであった。私は勉強していなかったのだろう。それっぽく、適当に文学っぽく答えた(笑)。それを聴いた先生は、憤慨した。それは違う、全く違うと。お前が言ったのは何も根拠がない、ただの妄想だと。自分ひとりで勝手に妄想するぶんにはいいが、これは国語の授業なんだ。国語というのは創造力を養うものなのだ「creation」なんだ。お前のは「imagination」*1だ、いやそれ以下だ。ちゃんと書いてあることから、物事を組み立てろ、と。そして私は放課後の居残りを命じられた。しかし、その居残りには納得するものはあった(ただ、いまだに創造力と想像力の、微妙な違いを理解していなのではないかと感じることもあるが)。まさにに熊太郎は、私と同じ失敗をしたのではないか。とはいえ、このような勘違いはよくある。というより私たちは、人の言動を、勝手に読み取ってしまう。これが間身体性の問題なのではないか。言葉によるコミュニケーションでしっかりと裏付けなければならないのではないか。態度で、行動で示しても、それを根拠に出来ないのではないか。といっても反論は簡単だ。言葉は嘘をつける。根拠には態度と同様、出来ない。何だかひどくチンケな話になってきてしまった。最近私は人と人はわかりあえないという意見に落ち着きやすい。と同時に大体わかるという意味において人と人はわかりあえていることを知っている。というか日常の言語とか身体によるコミュニケーションが通じるのだから、当然帰結する話である。うまく今言えることが出来ないが、本当に理解出来た時、納得できた時に感じる、達成感のようなもの(経験に当てはめられた時に感じる居心地の良さ、言行一致?)を人と共有したいということなのだろうか。

告白 (中公文庫)

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暴動

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*1:創造は「creation」、「想像」は「imagination」、「妄想」は「delusion」か