語る人

 デニーズにて朝を迎える。車の往き来は深夜よりは多くなったように思える。向かいの席では宮本輝の文庫を熱心に読む友人がいる。眠ることが出来なかったので、私は彼に倣い、平野啓一朗の『葬送』を読もうと試みた。『存在と無 現象学的存在論の試み』と書かれたしおりは百ページ目にはさまれていた。睡眠不足と酔い、おそらく両方が原因であろう頭痛に耐えながら二ページほどめくるとこんな文章が記されていた。

……この胸の中から、言葉が失われれば、どれほどの静寂が得られるだろうか?どれほど安らかで、平穏な静寂が。―密やかに発せられようと、声高に発せられようと、いずれにせよ、言葉は精神の為には喧騒である。

 私はこの文章を見ながら数時間前のこと振り返っていた。居酒屋で同級生が酔っぱらいながらビールの良さを語っていた。論理を形成しない、矛盾だらけの彼の演説を聴きながら、大笑いしながら、あきれてもいた。彼が静かになると、別の同級生がサブカルチャーについて語り始めた。理屈だった言葉は説得力に満ち溢れ、酔いが回っていようとも声にハリがあった。しかし彼の演説でさえ、私は引き受けることは出来なかった。おそらく疲れていたのだろう。論理を抱えた言葉であろうが、矛盾を抱えた言葉であろうが、引用文同様やはり喧騒でしかなかった。