平野啓一郎『決壊』をちょっと読んでみる。

 学校の演習で平野啓一郎について扱おうと思ってまとめ読みをしている。演習ではどうせ大した発表は出来ないだろうけど。というわけで参考に『決壊』を読もうと図書館にある「新潮」を手にとってみる。本棚にあるのが一月号からだったので連載第一回から読んでいるわけではないのだが、『決壊』これは面白い。席と本棚の往復が苦にならない。一体この面白さはどこからくるのだろう。考えてみた。
 まずいつも平野氏の小説より読みやすい。平野氏の書籍はほぼ持っているが(『葬送』、『顔のない裸体たち』は読んでないけど…)その中でも突出して読みやすい気がする。平野氏のブログではリーダビリティについて言及してかつこの『決壊』についてはそれが意識していると記述している。だからこの読みやすさは気のせいではないだろう。しかし読みやすさが面白さにつながるかどうかは正直わからない。でもとりあえず読み返しがなければテンポよく先を読める(スロー・リーディングは買ってない…)。
 次にこの読みやすさに加えて、あまり主要人物の心理描写が少ない。*1外面的な記述はあるが、それ以外はない。だからそこから推測するしかないのだが、このかゆい所に手が届かないもどかしさとでもいえばいいのか、これが結構面白さを増す。これから内面が語られるのだろうか。*2
 最後は取って付けたような話だが、平野氏の前作『あなたが、いなかった、あなた』収録の『フェカンにて』によれば『決壊』はドストエフスキーの作品を意識されているそうだ。例えば今日読んだ箇所「悪魔」だと『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第九章のイワンが観る幻覚の話を下地にしていると思われる(違う?)。個人的に好きな作家の、しかも好きな箇所が使われていると、面白いと思うもので、もっと読みたいとおもうのだ(ドストエフスキーが嫌いな人がいるのかはわからないが…)。
 とりあえず思いつく限り挙げるとこんなものか…。早く『葬送』と『顔のない裸体たち』を読もう。

*1:いや、でも友哉の内面は語られているかな、う〜ん

*2:それとも『カラマーゾフの兄弟』のドミートリィ、スメルジャコフの証言のように主観的記述が語れるだけなのだろうか