サミュエル=ベケット『エレウテリア(自由)』

 ベケットの作品を読んでいる。『ゴドーを待ちながら』の次に読んだのは『エレウテリア(自由)』である。この作品は『ゴドーを待ちながら』の前に創られた戯曲だ。そして結局演じられることはなかった。そしてベケットの死後、ゴタゴタしながらこの処女戯曲が出版された。そのゴタゴタはこの小説のはしがきに詳しい。ちなみにベケットの作品は白水社でほとんど出版されている。さてそんな作品の概要は…訳者あとがきにしっかりまとめられている。だから本屋であとがきを立ち読みするといい。

 ヴィクトールという青年がいる。彼は家を出て貸部屋に住んでいる。そして何もせず寝てばかりいる。また乞食のようなことをしている。その家族、親戚、婚約者たちは彼を連れ戻そうとするが彼は頑なに拒否する。彼の壊した自室の窓ガラスを修理しにきたガラス屋は彼を問い詰める。この部屋で何もせず腐っていくことがどんな意味があるのかと。すると彼は知りませんと答える。ではなぜ連れ戻そうする者を追い払うのかという問いに、できるときには自分の自由という財産を守るためだと答える。その自由は何をするためのものかという問いには、何もしないためと答える。そして一向に進まない物語に「観客」が拷問人を連れて登場し、その彼の生活の真相に迫ろうとする。その後ある錠剤を持った彼の親戚と彼の婚約者が登場し、親戚は彼にその錠剤を渡し生か死かせまるのだが…。

 相変わらずまずい概要だがまぁ間違っていないのでは…もちろん正解ともいわないのだろうけど。訳者あとがきの言葉を借りればこの戯曲に登場する人(観客含む)が

謎の無気力状態に吸い寄せられるようにヴィクトールに干渉する。

のだ。それがこの戯曲なのだろう。とりあえず二冊彼の戯曲を読んで面白いと思うところはメタシアター的なところである。登場人物が観客を意識した発言するところに思わず笑ってしまう。抜き出すと

クラップ氏 このお芝居で、あなたはなんの役に立つんでしょうね。
ピュック博士 (じっくり考えてから)お役に立てたらと思っています。
メック夫人 (不安げに)なんのことかしら。
ピュック博士 ところで、あなたは、あなたの役はちゃんと決まっているんですか?
クラップ氏 終わりましたよ。 
ピュック博士 でも舞台にいるじゃないですか。
クラップ氏 そのようですね。

となる。クラップ氏はヴィクトールの父だが、実際このあと死ぬことによって舞台から去る。そしてこのメタシアター的要素によって「観客」さえ劇の中に取り込んでしまう。しかも物語が遅々として一向に進まないからという理由なのだから笑ってしまう。
 
 そもそも過去賢人たちは自由は社会生活を正しく営むことを基礎とすることによって得られるとしてきた。ヴィクトールの自由はそういったものとは違うようだ。彼は社会を捨てた。今度は自分にとらわれるようになった。そして自分を捨てた。その方法が何もしないということだった。死は死を意識することが出来ないことが難点であり、自分の死を楽しむということ、それが自由であるという。そんな考えをヴィクトールは一応述べている。しかしこれは父の死によって覆ってしまうのだが。
 どちらにしても自由しんどいな…