超コワイ

 駅のホームで電車を待っていた。ホームに小さなこどもを連れた若い女性がいた。こどもは指人形をつけて遊んでいた。
 女性が目を離した間に、こどもはホームの階段の辺りまできていた。そして階段を降りようとしてこどもが足を踏み外してしまったらしい。女性はこどもに気がつき、なりふり構わず駆け寄った。こどもに怪我はないようだった。駆け寄ってしゃがんだ時、パンツが丸見えだった。そして

「超こわい」

開口一番に大きな声で言った。隣のホームの人たちにも聞こえたらしく、こちらのホームに視線を送っていた。こどもはきょとんとして階段に腰かけていた。

 とにもかくにも、こどもが無事で良かった。ただ、女性の「超コワイ」の一言が耳から離れない。なんだろう、イマイチ危機感が感じないこの言葉。音声、語感的に全く「超コワイ」感じが伝わってこないものだということが原因だろうか(それはこの出来事を通じて知ったのだが)。こどもが無事だったゆえに発せられたこの言葉は、悲鳴もしくは声無き声になっていたのかもしれない。そう思うとますます違和感を覚えずにはいられない。
 状況が言語化されるということは、客観的な視点を除いて、主観者にとってはまだ言語化を許されている状況、つまりまだ余裕(思考?)が残されているということだろう。その典型的な一幕だった。
 本当にこどもが無事で良かったと思う。