2016年1月18日~2016年1月24日

本当に雪が積もっていた。友人や両親に連絡してみたところ、積もっているやら雨だけだとも返事があった。この程度なら仕事への影響は少ないだろうか、そんな事を考えながら身仕度をした。

会社に置いたままにしたブーツを回収しようと、自宅からビニール袋を持ってきたところ中にゴミが入っていた。うっかりしていた。

向かいの席に座った五十代の男性二人の会話が聞こえて来た。どうやら男性は妻と別れ独り身らしい。それに対して妻が結婚相談所の仕事と関わっており、再婚する気があるなら紹介するという。その発言に苦笑いしながら男性が断りを入れた。

デューン 砂の惑星を手に入れた。読むのが楽しみである。

サライネスのセケンノハテマデの連載が終わってしまった。twitterを確認してみると家庭の事情が要因らしい。残念だが戻ってくるとの発言もあったので次回作に期待したい。

散歩に出ると猫が日向ぼっこしていた。

秋刀魚は電子レンジのオーブン機能で焼くものでは無い。

2016年1月11日~2016年1月17日

ストルガツキー兄弟の滅びの都を読み終える。この著者の作品の中で最も観念小説的な印象を覚えた。

J-POPを聴くと空元気になってしまうからタチが悪い。

酒の肴に酒盗を買ってきたのだが酒が進み過ぎてしまう。温かい白飯に載せると生臭いとも思える。

更に酒盗を買い足した。好みの問題だろうが、甘口より辛口の酒が合うと思う。

ストルガツキー兄弟の幽霊殺人を読み終える。物語の都合上、警察官である主人公の頑迷さに付き合わされる事になる。一方、物分かりの良い物理学者は世に理解される事は無い。一時の頑迷さを物理学者が許さず、これを悔やみ続けている主人公の在り方に、ストルガツキー兄弟の現実的な繊細さを感じる。

午前中用事を済ませて食事を取ると眠ってしまい気がつくと夕方になろうとしていた。散歩がてら街に出る事にしたものの、居眠りしてしまった事がどこか奇妙に感じられた。それほど疲れているだろうか。何となく虫の知らせと言った言葉が頭によぎる。両親に電話でもしてみようか?それとも俺自身に何かあるのだろうか?そんな事を考え混雑する改札の前で耳許で鳴る音楽が止まった。スマートフォンを取り出すと友人からの電話だった。開口一番風邪を引いたという。具合は良くないのかと問えば、会社を早退したと言い、いつも通りの会話をして、駅構内を出たところで電話が切れた。

駅前で催される大道芸を横目に金券ショップで商品券を換金し、そのままCDショップに移動し河野智美のリュクスを購入した。

パソコンに向かって暇を弄んでいると両親から連絡があった。特に変わりは無いという。

ジムにて相撲を眺めた後、ニュースを見ていると太平洋沿岸にて積雪の可能性があるという。暖冬だと聞いていたが、雪は降るという事か。

雨が降っている。雪になるのだろうか。

デューン 砂の惑星の新装版のカバーを見掛けた。楽しみにしている再販である。

2015年下半期の音楽

2015年6月から2015年12月まで聴いた音楽をまとめた(→2015年上半期のまとめ)。
今年後半は主にブログを参考に音楽を聴いていた。特に id:joefreeid:zu-jaid:yorosz のブログからフリージャズ/インプロビゼーション/クラシックに関して影響があり、聴いたものに反映されている。また「Jazz The New Chapter3」を読んだりもした。こちらは余り影響が無かった。そういったなかで趣味嗜好がはっきりとして来たように思う。

  • 高木元輝『モスラ・フライト』

フリージャズと言えばこういうものだろう、そんな期待を裏切らない作品だった。モスラの名を冠しているため購入したのだが、あくまでコンセプチュアルなものであって、モスラとは直接関係無い。当たり前だがモスラのテーマのフレーズが飛び出したりする訳では無い。しかし敢えてモスラが飛び立つ場所について言及しておこう。モスラの原案はフランス文学を専門とする三人の作家により作られた。原案では国会議事堂で蛹となり成虫として飛び立つ事になっていた。これは安保闘争を念頭にしたものであり、政治的意味合いが多分に強いものだった。これを嫌った製作者側は最初に飛び立つ場所を東京タワーに変更した。モスラが国会議事堂から飛び立つには政治的色彩が弱まるまで時間が必要だったのだ。

Momoteru Takagi Trio「Love Song / People in Sorrow」

  • 土岐麻子『STANDARDS in a sentimental mood~土岐麻子ジャズを歌う~』『Bittersweet』

まず『SANDARDS~』から聴いた。基本的にジャズのスタンダード曲を知らない訳だから勉強も兼ねていた。綺麗な歌声だと思った。また Red Hot Chili Peppersの「Californication」のカバーが非常に良かった。
その後、ジェーン・スーがコンセプト・プロデューサーとして参加した『Bittersweet』を聴いた。「都会で暮らす不惑の女性のサウンドトラック ~女は愛に忙しい~」がテーマに掲げられ『SANDARDS~』のテクニカルな美声から一転、地声をコンセプトに合わせて採用しているようだった。四十代前後の女性の感情を描いた「Beautiful day」、アナと雪の女王の「Let it go」のアンサーソングともいうべき「Don't let it go」が面白かったのだが、最終的に「地下鉄のシンデレラ」で今までの淀んだ雰囲気を昇華させるような風を呼ぶ。例え風が一瞬の慰めだとしても、四十代はそれすらも織り込み済みだろう。

土岐麻子「セ・ラ・ヴィ ~女は愛に忙しい~」
土岐麻子「BOYフロム世田谷」

  • ノーバート=クラフト『ヴィラ=ロボス:ギター独奏曲全集』

平野啓一郎が毎日新聞にて連載していた「マチネの終わりに」という小説がある。主人公がクラシックギタリストのため楽曲や演奏に関する話題が頻出する。この音源に収録された「ブラジル民謡組曲No.4 Gavata Choros」はフランスに亡命したイラク人女性の為に演奏される、繊細で温もりのある楽曲である。小説内では主人公がジュリアン=ブリームの演奏を聴くよう勧めているが音源が探せなかった為、ヴィラ=ロボスのギター作品を網羅した音源を購入した次第である。尚、演奏者であるノーバート=クラフトはギタリストとして世に出た後、スタジオエンジニアとして活躍しているという。

Norbert Kraft「Heitor Villa-Lobos - Mazurka Choro」

  • Albert Ferber『Debussy : Estampes & Children's Corner (Mono Version)』

ドビュッシーの『版画』に収められた「雨の庭」に興味を持ち聴いた。『版画』は「塔(パゴダ)」「グラナダの夕べ」「雨の庭」の三曲で構成されたピアノ作品である。気分や雰囲気を喚起する印象主義的音楽と言う事らしい。

Albert Ferber「Claude Achille Debussy - Estampes No.1 Pagodes」

  • オレグ=カガン/スヴャトスラフ=リヒテル『ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第 1番「雨の歌」』

リヒテルのピアノ演奏を聴く為に購入した。ブラームス「ヴァイオリン・ソナタ 第 1番 ト長調, 作品 78 雨の歌: 1. Vivace ma non troppo」、グリーグ「ヴァイオリン・ソナタ 第 2番 ト長調, 作品 13: 2. Allegro tranquillo」が印象深い。

Oleg Kagan and Sviatoslav Richter「Johannes Brahms - Sonate für Klavier und Violine Nr. 1 G-Dur op.78」

  • Battles『La Di Da Di』

Battlesの新譜。全曲インストゥルメンタルとなりミニマリズムが極まった。

Battles「The Yabba」

  • Blacksheep『+ -Beast-』『Blacksheep』『2』

まず『+ -Beast-』から聴いた。テーマは架空のアニメのイメージ・アルバムとなっており、今までもアート・ワークに参加していた西島大介がコンセプト、アニメーター寺尾洋之がキャラクター・メカニックデザインを手掛けている。作品も物語の進捗に従って「時間象限」「Φ-Phase-」「地球、買います」と盛り上がりをみせていく。
次に旧譜『Blacksheep』『2』を聴いた。何より「切り取られた空と回転する断片」が印象に残る。

blacksheep「時間象限」

  • 志人・スガダイロー『詩種』

BlackSheepを聴いて以降、スガダイローに興味を持ち、「Jazz The New Chapter」で紹介されていた『詩種』を聴いた。ラップはどちらかと言えば朗読に近いもののように感じるが、これに応えるピアノもまた力強い。物語は擬人化された動物たちが現れ、特に白猿と赤天狗の物語を中心に進むという構成になっている。この詩の世界観の完成度が非常に高く、簡単に聴き流す事は出来難いものとなっている。

志人・スガダイロー「ニルヴァーナ-涅槃寂静-」

  • スガダイロー『刃文』『sugadairo piano solo at velvetsun』

引き続きスガダイローを聴いた。まず『刃文』から聴いた。トリオの演奏になりキャッチーだがしっとりと濡れた日陰の擁壁の手触りのような印象が残る。
次に『sugadairo piano solo at velvetsun』を聴いた。上記の『詩種』でも聴いたフレーズが聴こえたりする。特に印象に残るのが「はとぽっぽ」の演奏だったのは我ながら驚いている。

スガダイロー「刃文」
スガダイロー「蓮の花」
スガダイロー「無題(ペール・ギュント習作2)」

  • GRAPEVINE『EVIL EYE』『EAST OF THE SUN / UNOMI』

未だに聴いている。そもそも未だに聴けるのは何故かと考えれば惰性が一番とも言えるが、ブラックミュージックに影響を受けた音楽である事が根底にあるのかもしれないと後付ながら考えている。

GRAPEVINE「EVIL EYE」
GRAPEVINE「EAST OF THE SUN」

  • 尾尻雅弘『J.S.バッハ:リュート作品集』

ギタリスト尾尻雅弘による七弦ギターによる演奏。端正な印象を抱く。

  • Nonoko Yoshida『Lotus』

アルトサックス奏者吉田野乃子の『Lotus』を聴く。多重録音されたアルトサックスの反復と変調は日常に最適化されて狂った身体を解放してくれる。

Nonoko Yoshida「Lotus」試聴用動画
Nonoko Yoshida「Take The F Train」Live ver.

  • Ryoko Ono『Alternate Flash Heads』『Undine』

アルトサックス奏者小埜涼子の作品を聴く。まずは『Alternate Flash Heads』を聴いた。九十九の数秒から一分程のトラックが収録されており、聴き方は一から九十九まで順に聴くのも良し、ランダム再生で九十九の九十九乗という殆ど違う曲順でも聴く事も可能になっている。ランダム再生でアルバムリピートにすれば、激しく息を乱した永遠とか無限とか言った存在を意識してしまう。
次に『Undine』を聴いた。一.五倍速「タルカス」の印象がどうしても強いのは十五分もある曲を見事な編曲で飽きさせず聴かせてくれるからだろう。多重録音による「Piano Phase」、チャーリー=パーカーのメドレーに化粧品ブランドを歌詞に添えた「birds」と密度が濃い。

Ono Ryoko「Undine」digest
Ono Ryoko「esoteric」
Ono Ryoko「birds」

  • Colin Vallon Trio『Les Ombres』

ECMにて作品を発表するようになったコリン=ヴァロンのデビューアルバム。認識したの「Jazz The New Chapter」だが、たまたま検索をしているところに下記楽曲を聴き、すっかり気に入ってしまった。「Un rose en hiver」の躊躇いがちな鍵盤の進みに知らぬ間に同調してしまう。

Colin Vallon Trio「Juste Une」

  • ヴァレリー=アファナシエフ『J.A.バッハ:平均律クラヴィーア曲集(全曲)』

John Lewis の平均律クラヴィーアが聴きたいと思うようになったものの、よくよく考えてみるとそもそも平均律クラヴィーアを聴いた事が無い。そこで全曲揃ったヴァレリー=アファナシエフの演奏を購入した。音楽理論的な話題で頻出する事は知っているものの、よくよくどこか聴かされていたフレーズがそんな事を忘れさせてくれる。

Valery Afanassiev「Das Wohltemperirte Clavier BWV846 - BWV851」

2016年1月4日~2016年1月10日

答えが出ないのは当たり前であり、結局のところ決断が物事の大分だと改めて思う。

髪を短く切り白髪を見つけるのが容易になった。老いに対する自覚は身体的な変化が養うものだろうか。

久しぶりに図書館に出向いた。ストルガツキー兄弟の著作を読む為に基本的に古本を購入していたが、さすがに定価の二倍以上の価格を購入する余裕は無い。例えばヌーンユニバース―異文明接触委員会が関わるラドガ壊滅は二万円の価格になっている。まずはモスクワ妄想倶楽部で語られた青ファイルこと滅びの都を読み終えたいと考えている。

マチネの終わりにが終わりを迎えた。主人公の演奏に、結局結ばれる事の無かった女性が涙を堪えながら、人の存在の肯定とでも言うべき意図を解釈している。二人が再度出会いを果たしそこで何が語られるのかは読者に委ねられていた。一つ一日の束の間の楽しみが終わってしまい途方に暮れている。

2015年12月28日~2016年1月3日

学生の時、教師に新共同訳の聖書を勧められた事を思い出した。これから新約聖書と一度挫折した旧約聖書を読み直そうかと思う。しかし旧約聖書の新共同訳は電子書籍には見当たらない。

ふとドイツ人ゴールキーパーであるオリバー=カーンがハンドでゴールを入れた事を思い出した。調べてみると今は引退してサッカーの解説をしているらしい。

駅前で別れのキスをする良い歳の男女を見掛ける。仲睦まじいのは良い事だが共に歳を越せないとはどういう理由なのだろうと考えてみるが、どうと言う事は無く仕事があればそれまでの話だった。

友人と年越し蕎麦を食べた。

ハードディスクのデータが一部損傷してしまったらしい。全く厄介なものだと思う。

年賀状が届いていた。送る手間暇を考えると恐れ入ってしまう。

ジムのモニターにて箱根駅伝を眺めた。広告に思わず感動させられてしまうが、一時の感情の高まりに過ぎないなと疲れてしまう。

『フルスタリョフ、車を!』『わが友イワン・ラプシン』

アレクセイ=ゲルマン監督作品『フルスタリョフ、車を!』『わが友イワン・ラプシン』を観た。
「神々のたそがれ」の公開を契機にアレクセイ=ゲルマンの作品が各所で上映された。アレクセイ=ゲルマンが監督したのは事実上「神々のたそがれ」を含め五作品となり、全てを観賞する事は可能なのだが、結局二作品を観るだけに留まった。

誰もいない雪が積もった路上。男は車が一台停まっているのを不審に思い見定めている。すると車から現れた秘密警察が男を納屋に閉じ込める。
禿頭の中年の男性は大家族に囲まれて暮らしている。食事を取りながら吊輪に捕まり、仕事場の病院では我が物顔で闊歩している。どうやらこの男はかなり高い地位にある医者らしい。しかし突然裏口から塀を飛び越えて出奔してしまう。どうやら身に危険を感じ取ったようなのだ。片田舎の駅を訪れるも電車は既に無い。不良達に囲まれ格闘するも秘密警察に見つかってしまう。身柄を拘束された医者は商業トラックを装った護送車に乗せられ、複数の男たちに尻を掘られ吐瀉する。護送車が停められ解放されると死を前に病床に臥したスターリンの元へ送られる。治せと言われるも最早為す術も無く、腸内から異臭を放ったスターリンはそのまま死ぬ。これを知った秘密警察長官ベリヤは「フルスタリョフ、車を!」と運転手の名を呼ぶのだった。
納屋に閉じ込められた男が収容所から出て来る。どうやら何年も閉じ込められていたらしい。男が何とか乗り込んだ電車には医者の姿があった。医者は頭にコップを乗せ、電車がカーブを曲がっても水を零さないでいられるか賭けに興じ始める。

ユダヤ人医師がソ連高官の暗殺を謀ったとする流言「医師団陰謀事件」とスターリンの死を基にした作品。題名はスターリンの死を知った側近ベリヤが勝利感を隠そうともせず放った言葉だという。最後に登場する医者はマフィアのボスになっており、これら一連の出来事が今日のロシアが抱える諸問題の根源である事を示唆しているという。こういった説明は映画には無く、せいぜい上記のような出来事を知るのが精一杯だった。

フルスタリョフ、車を! [DVD]

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  • 『わが友イワン・ラプシン』

1980年代、孫がいる年老いた語り手により、1930年代のある男の数年間が語られる。
無骨な刑事ラプシンは共同生活を送っており、舞台女優ナターシャに出会う。娼婦を演じるので役作りの為に話を聴きたいとナターシャが警察署を訪れればその場を設け優遇する。その後友人である記者ハーニンがやってくる。ラプシンはナターシャに愛を告白するも、ハーニンが好きなのだという。一方、ハーニンは妻を失い精神的に不安定なのか自殺を試みようとしたところをラプシンが喝破して止める。ラプシンは脱獄囚による殺人事件を追う中、とうとう犯人を追い詰める。しかし取材の為に同伴していたハーニンが刺されてしまう。友人の負傷に激情を露わにしたラプシンは犯人を容赦無く射殺してしまう。
記者ハーニンがモスクワに向かう為、ラプシンとナターシャが見送りにやってくる。ハーニンはラプシンにナターシャへの好意をなぜ伝えてくれなかったのかと言い、その場を去る。ハーニンが居なくなるとナターシャはハーニンに振られたと語る。ラプシンは憮然とそれを聞き何も言わない。ナターシャは「上手くいかないものね」と言いその場で別れてしまう。ラプシンは共同生活を送る仲間に「今度昇進試験を受けるのだ」と語る。

1930年代はスターリンによる恐怖政治が敷かれた時代だという。スターリンの側近No.2であるセルゲイ=キーロフの肖像が作品に何度か登場するらしいのだが、彼の暗殺を契機に粛清が本格化しており、登場人物たちが今後粛清に遭う事を示唆しているというのだから驚いてしまう。またノーベル文学賞を辞退したボリス=パステルナークの精神を体現した作品だと監督は語っている。個人的には夜半ナターシャに会いに窓から部屋に入る中年ラプシンの姿がどうにも滑稽で印象深かった。

わが友イワン・ラプシン アレクセイ・ゲルマン監督 [DVD]

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2015年12月21日~2015年12月27日

駅に着いて定期券を忘れた事に気がつく。全く自分には呆れるしかない。金が惜しければ遅刻しても良かったのだと後になって気がついた。

割と単価の高い喫茶店で若い男女が語り合う姿を見掛ける。

クリスマスイブの朧月は何やら大きく見えた。

駅構内、エスカレーターで独り泣く若い女性を見掛けた。こんな日に何があったと言うのだろう。

パプリカをオーブンで焼いたところ、非常に美味い。また最近は紅茶味の豆乳にはまっている。

イエスが無花果の実を食べようとして木に向かうも何も実がなっていない事を知ると枯らしてしまう話がある。どう見ても腹立ち紛れの行動に思える。そう考えると面白い。そんな事を考えながら今週を過ごした為、商業主義的なクリスマスから一味違う生活が出来たのではとちょっと得意になっている。勿論、冗談である。

モスクワ妄想倶楽部

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、中沢敦夫訳『モスクワ妄想倶楽部』を読んだ。

モスクワ在住の作家は所属する作家倶楽部から原稿を幾つか持って研究センターに行くよう命じられていた。研究センターでは何やら作家の原稿に関する研究が行われているらしい。科学技術に貢献すべく重い腰を挙げて外出すると、同じマンションに暮らす友人が病院に連れ出されそうになっている。友人は特別な薬を取って来て欲しいと言い、仕方無くある施設を訊ねるものの薬を手に入れられない。仕方無く病院に赴くと友人は薬の事を忘れるようにと喚くばかりだった。それから作家は何者かに見張られている気配を察するのだが…。
他方、作家は問題の研究センターに赴くと男と機械に迎えられる。男によれば機械はそのテキストの読者の数を示すのだという。作家は自らが書き続けて来た原稿「青ファイル」の行く末について考え始めていた。そしてふと男の正体が「巨匠とマルガリータ」の作者であるブルガーコフである事に気がつく。倶楽部で男を見つけた作家は彼と青ファイルの行く末について語る。そして男は見せた事も無い青ファイルの一節を諳んじて見せる。作家は青ファイルのまだ完成していない何百頁を思い、倶楽部のレストランで訳も判らず幸福になりながら食事を注文をするのだった。

モスクワ在中の作家はアルカジー=ストルガツキーがモデルとなっているようだ。物語前半の薬の件は「スプーン五杯の霊薬」の筋書きをなぞったものである。度々言及される「青ファイル」は執筆されていたものの、当時発表されていなかったストルガツキー兄弟の「滅びの都」を指す。そして研究センターで出会う男は、演劇作品や小説を執筆するも大半を発表出来ず、または直ぐに打ち切られてしまい生涯を終えたブルガーコフである。ペレストロイカグラスノスチ以前に於いて、作品が発表出来るか否かは一つの問題であったろう事は想像に難くなく、実際ストルガツキー兄弟は作品が発表出来ない時期があったと言う。作家とブルガーコフの対決は本書でもっとも読み応えがある部分である。また訳者が指摘している通り、作家倶楽部に併設されたレストランの薀蓄等は「巨匠とマルガリータ」を意識したものとなっており、ブルガーコフ及び「巨匠とマルガリータ」へのオマージュとなっている。

本書の原題は「びっこな運命」であり、作家・作品の運命を表したものとなっている。また「みにくい白鳥」と組み合わせて長篇として作品は完成されており、その長編の章立ては訳者あとがきにて記載されている。

本書で作家に深見龍なる日本人から手紙が届いている。これはストルガツキー兄弟の作品を邦訳していた深見弾を指している事は明らかだ。更にストルガツキー兄弟の作品を読み進めたところ「波が風を消す」にてフカミゼーションなる言葉を見つけた。深見弾ストルガツキー兄弟に多大な影響を与えていたのだと感慨深い思いがした。

モスクワ妄想倶楽部

モスクワ妄想倶楽部

2015年12月14日~2015年12月20日

カール=ルイスが世界で一番脚が早かった頃、彼の名がその代名詞だった。そんな事を思い出した。

コンビニのレジの前で財布を忘れた事に気がつく。全く自分には呆れるしかない。

天冥の標Ⅸ ヒトであるヒトとないヒトと PART1 を読み終える。役者は揃い、一同が同じ場に相見える為の舞台が出来上がりつつある。種が種として生存する為の多様性の必要と、事実多様性を獲得して来た様が描かれているのが感慨深い。

暇を持て余したので、修羅の門修羅の刻、総員玉砕せよ!を読み直した。ついでに何冊かの漫画を古本屋に売ったのだが百五十円にもならなかった。

みにくい白鳥

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、中沢敦夫訳『みにくい白鳥』を読んだ。

雨が降り止む様子は無い。作家ヴィクトルは娘が大人のように話している事に気がつく。妻によれば娘は濡れ男のところに出入りするようになったという。濡れ男について余り街の人々は知らない。伝染病だという話もあったが憶測の域は出ず、街の外れの病院に収容されている。偶然、ヴィクトルは濡れ男が襲われているところに遭遇し興味を持つようになる。そんな折、作家に子どもたちから講演の依頼が届く。質疑応答で子どもたちは作家の考えや既存の価値観について疑問が示してみせる。そして子どもたちは濡れ男が住む収容所に身を寄せ戻らなくなる。親たちは子どもを取り返すべく収容所に集まり、また政府も濡れ男の弾圧を始めるのだが…。

本書では、未来を託されるべき存在である子どもたちが、過去の遺産や思想を受け継がないとはっきりと示す。この考えには衝撃を受けた。そして頭に過ぎったのは、過去の様々な文化を学び受け継ぎながら戒めているはずの過去の汚濁もまた継承してしまい、発露するきっかけを与えている、そんな事だった。

雨男は食料より本を読まなければ生きていけないらしい。情報生命体的な人の突然変異なのだろうか。

本書は単独で発表されたものだが、その後ストルガツキー兄弟は『そろそろ登れカタツムリ』と同様、『モスクワ妄想倶楽部(原題「びっこな運命」』と合わせて一つの長篇として発表している。本書はまだその長篇が未発表だった為、単独で刊行したと訳者あとがきにある。

みにくい白鳥

みにくい白鳥

2015年12月7日~2015年12月13日

十二月のイルミネーションを家に飾る親子を見掛ける。この輝きは必要とする人たちだけに用意された物なのだと腑に落ちた。

電車に乗ろうと駅に赴くと電光掲示板には電車の遅延情報が流れて行く。「~線は~駅で起きた人身事故により」路線は一つでは無いらしい。今日は何かしら支払いやら締切が設けられた日なのだろうか、また人の死が何かしらの出来事として感じられるのが駅かと背筋が寒くなった。しかしよくよく考えてみれば忘年会シーズンでもあり、酔った勢い線路に落ちてしまっただけかもしれない。もちろんそれもまた悲劇である事には変わりない。駅のホームで小便を垂れ流し、電車が近づく音に誘われ、鋭いブレーキ音と共に身は弾け、四肢は轢断される。最後の記憶は視界に散った激しい火花だろうか、そんな想像をした。

巨匠とマルガリータやらマチネの終わりにを読んでいると聖書の知識が求められる事が多く、購入して放置していた文語訳聖書を手に取ってみたのだが、やはり文語は格調と共に敷居が高かった。仕方無く口語訳を読み進める事にした。

仕事終わりに友人と日本酒を飲みダーツをした。友人から簡単な手ほどきを受けて的に向ったが、酔いがまわって力が抜けている為か、今回は割と的に刺さった。

目覚めると友人からメールが届いていた。相変わらず急な呼び出しだった。友人行きつけのジャズ喫茶で近況を聞いたところ、色々と考える事も多いようだったが、物事を決め兼ねているという話しているなか、「川の流れのようにって良い歌詞だよね。」等と言うものだから吹き出してしまった。川は流れても、流れの中で決断した事が良い方向に向かえばと思う。

2015年11月30日~2015年12月6日

椎名誠について調べていると、ネット上に公式の文学館があり、目黒考二と共に全著作を振り返るという企画があった。まずSF三部作及び読んだ記憶のある私小説について読んでいった。著者自身、忘れている作品があったりするのはご愛嬌だが、旧知の間柄の二人の掛け合いがなかなか面白く、結局読むのを止められなくなった。この企画でも触れられているが、教科書に掲載されていたヤドカリ探検隊という短編があり、おそらく椎名誠の初めて読んだ作品にはなりそうだった。ちなみにこれは書き下ろしの為、収録された単行本は無さそうだった。また目黒考二がこの企画の中で提案しているのが、武装島田倉庫の世界観を持つ作品、通称「北政府」ものの作品を集めた、続・武装島田倉庫の刊行である。著者は否定的な態度を取っているのだが、ここは目黒考二を支持したい。

背広を着た男性が牛乳パック五つ、そして青海苔を買い物かごに入れ精算していた。また後日だったか、他の男性が一つの商品を大量に買っていたのを見た。そういえば、ボジョレーヌーボー解禁日に大量に買い込んでいる男性を見掛けた事もあった。大量に買い込む姿は意図が見えないと少し不気味ではある。

巨匠とマルガリータを読んだ。貪るように夢中になって頁を進めた、幸せな時間だった。

2015年11月23日~2015年11月29日

掃除をしたのだが一向に終わる気配が無い。台所を主に取り掛かったのだが、長年住み暮らした生活感は消えなかった。

とんかつ屋で熱燗で日本酒を飲む。通しで味噌田楽とこんにゃくが出る。ラジオから流れるのはのど自慢だがよく鐘が鳴る。参加者の嬉々とした声に女将が笑い、大将は「今日はよく鐘が鳴るね。」と応える。

昼下がりの喫茶店にはランチメニューのカレーを食べに多くの人が訪れる。若い男性の手元にカレーがあり、真向かいに座る三十代後半の女性は男性の言葉に頷いている。幾分か歳の離れた組み合わせは、男女の関係と言い切るのが難しかった。隣に座る二人組の男性は、キングクリムゾンが来日する事を話しながらスマートフォンを覗き込んでいる。「ロバート=フリップも来るのか。ちょっと興味あるなぁ。」「もうチケット売り切れてるよ。追加公演も決まったらしいけど。」「ロバート=フリップならギターを弾き遅れる事は無いのかな。イエスみたいに。」二人が笑いあっているとコーヒーが届く。「灰皿必要ですか?」と尋ねる店主に「煙草吸っても良いんですか?」と一人が尋ね返す。「勿論ですよ。」机に置かれた灰皿を手元に取り寄せるものの、もう一人は「俺はまだ遠慮しておく。」と隣の男女に気遣いを見せる。そう言われる前に煙草に火を点けた男性は手に持った煙草を廊下の方に向ける。馴染みの客なのだろう、CDを持ち込んだ中年の男性がステレオをいじり始めた。流れる音楽は悪くは無かったが、当たり障りが無いとも言えた。隣に座った、やはり常連客に「ジャケットが良いでしょう。ジャケ買いなんだ。」と声を掛ける。新たに親子連れ、女性客が入店する。「私、寅さんって苦手なのよね。文学座だっけ?あそこの俳優ってなんか大袈裟で。」「うーん、たぶん寅さんに自然なものって求めて無いと思う。」「そうね、確かに型にはまったものとして観ているわ。」そんな会話がカウンター席で繰り広げられるなか、また新たな常連客が店に顔を出していく。妻との待ち合わせに煙草を吸う中年の男性、新たな彼氏を連れてやって来た女性。男女、親子連れ、女性客、二人組の男性は知らぬ間に店から消え、常連客だけが店に残った。

店内では他人に配慮するよう求める但し書きがある喫茶店。客の声は密やかに、もしくは黙るしか無い。

母親に抱かれた首の座らない赤ん坊が首を仰け反らせて大きな瞳で俯向く大人を覗き込んで行く。

古本屋に寄り書棚を眺めるものの、どうにも気分が乗らず、そのまま店へ出た。一駅歩いてみたが、マフラーをしてこなかった事が悔やまれた。

雨で水かさが増した川が落葉を運んでいる。

何もやる気が起こらず布団のなかにいると友人から連絡があった。天ぷら油でボヤを起こしたらしい。話を聞く限り大した事は無さそうだったが、送られて来た写真を見ると修理が必要な焦げ具合だった。本人は今後の手続きの煩わしさを考え意気消沈しているようだが、どこか他人事とも感じているようだった。深刻になり過ぎる事も厄介なのだから、こういう態度もまた必要なのかもしれない。

一九四八年から一九五三年まで当時の文部省が教科書として発行していた民主主義なる本を読み終えた。本書はGHQの指示で作成され、法哲学者である尾高朝雄が編纂したという。社会学者西田亮介が本書について取り上げており興味を持ったのだが、なるほど戦後間も無い日本に民主主義を根付かせようとする意気込みが文章の端々から感じられとても新鮮だった。扱っている内容もかなり広範なものとなっており、今でも全く通用する内容と思われた。

そろそろ登れカタツムリ

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『そろそろ登れカタツムリ』を読んだ。

森は深く広く誰も何も理解出来ずにそこにある。森に建てられた研究所を舞台にしたペーレツ編と森でさまよい暮らすカンジート編で本書は構成されている。実際本書が発表された当時、ペーレツ編とカンジート編は別個の作品だった。また発禁の憂き目や外国での無断出版等の問題でそもそも作品として発表される場が無く、ペレストロイカの後、一つの作品として発表されるに至ったという。

ペーレツは枕草子を題材にした「平安後期の女性の詩歌にみられる文体とリズムの特徴」というテーマを持った研究者らしい。彼は森に入る為に研究所を訪れた。しかし森に入る事は許されず、お役所仕事に従事している。滞在許可が切れ、研究所を離れようとしても引き戻されてしまう。所長に直談判しようにも誰も所長を見たものはいない。皆、研究所の不文律に支配され、そこから逃れる事が出来ないでいる。
一方、三年前に森にヘリコプターで入り消息を断ったカンジートは、研究所での暮らしを忘れてしまい、森の集落で暮らしている。森には集落が幾つか有りそこで人々が原始的に暮らしているらしい。彼らは、「死体」なる動くでくの坊や野盗に怯えて暮らしている。カンジートは森を抜けだそうとするのだが、気がつくとその決意自体を忘れてしまう。森を抜け出すにはそれなりの準備がいるらしい。しかしまた準備自体を忘れてしまう。やっと森へ出掛けるものの、野盗たちに襲われ計画はご破産になる。妻と共に森を駆け抜けると妻の母親たちが姿を現し、男は必要が無いのだと言う…。

ペーレツは研究所の何かに支配され途方にくれ、カンジートはただ森を警戒しながら歩いている。死体やら水の玉が森を跋扈し、誰もそれが何なのか判らない。カンジート編に登場する森の怪しげな住人たちの姿は、椎名誠のヘンテコSF的な要素があり楽しめなくも無い。官僚主義、人類とは別個の生態系ー未知との接触をモチーフにした不条理な物語という事になるのだろうか?しかしそれでは余りに月並みで、それだけの内容だとは思えない複雑さがこの物語にはある。尚、本書の題名は小林一茶の俳句「かたつむり、そろそろ登れ 富士の山」から取られており、冒頭に掲げられている。

2015年11月16日~2015年11月22日

中年の男性がスマートフォンでアプリを起動させて「うんち」と入力して送信するのを垣間見てしまった。ちょっとした事でも簡単にやり取り出来る訳だから勿論内容もどうにでもなり得てしまう。

Sugadairo piano solo at velvetsun を聴いている。ピアノの旋律は自由で晴れやかにも関わらず憂鬱な気分を喚起させる。

「グレイトォー」トラのトニー=タイガーが叫ぶ。シリアルを食べただけなのに大袈裟な印象は否めない。しかし常にスポンサーを配慮するというプロ意識が彼にはあった。例えば彼にスポンサーがついてから、犬歯を削いでシリアルをよく噛める様にしたというエピソードは有名な話ではある。そんなトニーは棚に並んだシリアルで一日の運勢を占うのだという。「まあ、占いなんてものはオマケさ。身体が資本だよ。俺の鍛え上げられた胸筋を感じてくれ。」そう言うとトニーは毛に覆われた胸筋をビクンと動かした。しかし何故アメリカに移住したのだろう?「俺は菜食主義者なのさ、君はジャングル大帝を知っているだろう?理性ある動物は仲間をかみ殺すなんて出来ないのさ。あとは、自然に打ち勝つ為に、種を残そうとする性欲にも打ち勝つ必要があった。動物が何十年も月の光だけを浴びて人に化ける努力は未だにアジアで見られるけども、その実は本能をコントロールし理性を手に入れる事なのさ。それにはシリアルだよ、砂糖が性欲を掻き立てるという話もあるけども、これは一つの贅沢だし、逆に言えば欲求の喚起に対する内なる闘いに勝利する事が義務付けられるって寸法さ。」何に信仰を持っているのですか、そう尋ねようとした時、トニーが全身の毛を逆立てたのが判った。どうやら目の前に飛ぶ小蝿を追いかけようという本能を抑えているようだ。トニーさん、別段僕の前ではそう頑張らなくても良いんですよ、自然に行きましょう。「いやいや、私は人類に初めて接触図った理性あるトラだ。人間は私を見てトラの価値を図ろうとするだろう。私はトラを、それだけじゃない、動物の代表として、常に自然に打ち勝った理性あるトラじゃなければならないんだ。」それはご苦労様です。その為に人助けをしているんですね。「そうさ、命を奪うのでは無く助ける。こんな人道的なトラがいただろうか。早く私のように進化した同胞が更に生まれる事を祈っているよ。」トニーはそういうと削ぎ落とした剣歯を光らせ「グレイトォー」と咆哮するかのように叫んだ。

雨上がりの蒸し暑さと靄が掛かったコンクリートの街並みに額に汗を浮かべるしか為す術が無い。

「無駄な優しさなんて無いですよ。そんな事ばかり言ってると誰にも優しくされなくなりますよ。」果たしてそうだろうか。しかし素朴でありながら代えがたい説得力があると思った。

「グレイトォー‼︎」大きな声が聞こえた。朝から何事かとリビングに赴くとそこにはトラの着ぐるみを着た人物がテーブルでシリアルを食べていた。唐突な出来事に言葉も出ない。トラは俺に気がつくと当たり前のようにこう言った。「朝から大きな声を出してすまない。しかしシリアルを食べると力がみなぎってついつい声が出るんだよ。それにスポンサーもいるしな。俺はトニー=タイガー、君は大谷義博で間違いないな。」俺はやっと声を出して言った。「どうやって部屋に入った。人様の家で何をやっている?」怒声に顔を歪ませ、そして微笑を浮かべるとトラは言った。「繰り返しになるが俺はトニー=タイガー、部屋には玄関から上がらせて貰ったよ。鍵は掛かっていたが、シリアルのあるところ、俺に入れない場所は無い。コーンフロストが無くとも君の家にはグラノーラがあった訳さ。勿論君に用があって訪ねた。泥棒でもヤクザでも無い。何かといえば人語を解するトラ、観念が実体化したものらしいのだが、その辺りは詳しく知らない。シリアルを勝手に頂いているが、まあ、これはお通しくらいだと思って許して欲しい…。たぶん今の説明で君は納得していないと思う。しかし説明しなくても良い事敢えて説明しているって事に誠実さを見出して欲しい。さあ、そこに立っていないで座ったらどうだろう?」

アルカジー&ボリス=ストルガツキー「蟻塚の中のかぶと虫」「波が風を消す」を読み終える。「神々はつらい」「地獄から来た青年」で登場した惑星アルカナル、惑星ギガンダ及びコルネイが言及され思わずニヤリとする。発展途上の惑星に干渉する者は異文明接触委員会に所属する「進歩官(プログレッサー)」と言われ、最終的には超文明を持つに至った地球でさえ遍歴者と呼ばれる超超文明の進歩官たちの干渉を受けている可能性が追求され、物語は思わぬ方向を指し示して終わる。

ジムのモニターにて世界野球日本対メキシコを眺める。やたら日本にホームランが出ており、あまり緊迫感は無い。サウナに移動して音声付きで眺めたところによれば、メキシコのエラーが無ければ、ホームランも無かったらしい。

巨匠とマルガリータでも読もうかと本棚から取り出して訳者解説や著者略歴を眺めていたところで友人から連絡が入り対応している内に寝てしまった。

「さあ、大谷君、俺がここに居るのは君を助ける為さ。残念ながら君の周りには誰一人として助けてくれる者はいない。そしてなぜ君が傷ついているのかと思えば、奥さんとの離婚のせいだ。まずこの現状の認識に間違い無いだろうか?」確かに間違いは無かった。しかし一体どこからそんな事を知ったのだろう。「ここからが本題だ。君は奥さんとの離婚で参っている。わざわざ高い金を払って探偵まで使って浮気の証拠まで持っていると言うのに慰謝料の請求もする事なく持て余している。端的に言って君に突きつけられた現実は君を深く損ねた。そしてなし崩し的に君は今まで危なげなく生きて来た人生を踏み外しつつある。どうだろう?」何も言う事は無かった。しかし何故そんな事まで知っているのだろう。これはどうにもおかしい事態だ。「その沈黙は現状に間違い無いと言う事だろうか。まあ実際君の考えている事は全てお見通しなのさ。たかだか三十分そこらだが、君を上手く人生の正道に軌道修正して見せるさ。」余計な御世話というものだ。しかし何も言葉が出ない。「君が離婚で傷ついたのよく判る。何より君自身後悔している事も知っている。ちょっとした気持ちの行き違いだ、それが積み重なってしまった。君は途中それに気がついていたのに何もしなかった。そして彼女を寄る辺無いところまで追い詰めてしまった。君の後悔の出発点はここからだろうと思う。しかし、それは仕方無い事だったとも言える。何だろう、大切な人だからこそ、踏み込むべきか見守るべきか、判断は難しいものだ。君はそれを感じ取って気遣っただけだ。そしてそれに奥さんだって気がついていたさ。しかしどちらも態度を硬化させてしまった。そういった気遣いもまた、何か煩わしさとか押しつけがましさという雰囲気になって二人の間を遠ざけてしまった。簡単に言えば、どちらかが歩み寄るべきだった。二人はそれぞれその時々に演じる役割を間違えてしまっただけさ、だからチグハグになってしまった。でも役割にはある意味徹していたんだ、それがどうにも固定的だった事が問題だ。それが結論なんだと思う。申し訳ない、後付けな上に男女の問題だ、酷く具体的に欠けて抽象的な説明になっているかもしれない。しかし君なら理解していると思う。まあ、君が漠然と感じている事を言葉にしているだけなんだ。これは一種のカウンセリングみたいなものさ。次は処方箋だ。ここからは私の意見さ。余りにも簡単な事なんだ。それは失敗した自分、この五年間の結婚生活を送った、妻と共に居た自分を否定するなという事だ。君はこの五年間を無視して新たな生活も出来るかもしれない。しかしその五年間を生きた自分の影に折々苦しむ事になる。君はこの五年間を生きた自分に腹を立てつつも救ってやる必要がある。過去の自分に囚われるのでも無く、無視するのでも無く付き合ってやる、誰か友人を励ますように、これからの人生を楽しむ為に。」トニーはそう話すと一息ついて付け足した。「私がここに現れてしまったのは君だけの用じゃない。離婚した君の奥さんもまた傷ついている。そしてどこか気持ちの片隅で君を案じていたという事さ。まあ、君と違って立ち直りは早かったようだけどね。」シリアルの最後の一口をスプーンで啜るとトニーは身震いしながら「グレイトォー‼︎」と大きな声を挙げた。「それでは失礼するよ。時間を取らせて悪かった。健闘を祈る。」トニーは玄関の方へ向かった。そして扉が閉まる音が聞こえた。