2015年12月28日~2016年1月3日

学生の時、教師に新共同訳の聖書を勧められた事を思い出した。これから新約聖書と一度挫折した旧約聖書を読み直そうかと思う。しかし旧約聖書の新共同訳は電子書籍には見当たらない。

ふとドイツ人ゴールキーパーであるオリバー=カーンがハンドでゴールを入れた事を思い出した。調べてみると今は引退してサッカーの解説をしているらしい。

駅前で別れのキスをする良い歳の男女を見掛ける。仲睦まじいのは良い事だが共に歳を越せないとはどういう理由なのだろうと考えてみるが、どうと言う事は無く仕事があればそれまでの話だった。

友人と年越し蕎麦を食べた。

ハードディスクのデータが一部損傷してしまったらしい。全く厄介なものだと思う。

年賀状が届いていた。送る手間暇を考えると恐れ入ってしまう。

ジムのモニターにて箱根駅伝を眺めた。広告に思わず感動させられてしまうが、一時の感情の高まりに過ぎないなと疲れてしまう。

『フルスタリョフ、車を!』『わが友イワン・ラプシン』

アレクセイ=ゲルマン監督作品『フルスタリョフ、車を!』『わが友イワン・ラプシン』を観た。
「神々のたそがれ」の公開を契機にアレクセイ=ゲルマンの作品が各所で上映された。アレクセイ=ゲルマンが監督したのは事実上「神々のたそがれ」を含め五作品となり、全てを観賞する事は可能なのだが、結局二作品を観るだけに留まった。

誰もいない雪が積もった路上。男は車が一台停まっているのを不審に思い見定めている。すると車から現れた秘密警察が男を納屋に閉じ込める。
禿頭の中年の男性は大家族に囲まれて暮らしている。食事を取りながら吊輪に捕まり、仕事場の病院では我が物顔で闊歩している。どうやらこの男はかなり高い地位にある医者らしい。しかし突然裏口から塀を飛び越えて出奔してしまう。どうやら身に危険を感じ取ったようなのだ。片田舎の駅を訪れるも電車は既に無い。不良達に囲まれ格闘するも秘密警察に見つかってしまう。身柄を拘束された医者は商業トラックを装った護送車に乗せられ、複数の男たちに尻を掘られ吐瀉する。護送車が停められ解放されると死を前に病床に臥したスターリンの元へ送られる。治せと言われるも最早為す術も無く、腸内から異臭を放ったスターリンはそのまま死ぬ。これを知った秘密警察長官ベリヤは「フルスタリョフ、車を!」と運転手の名を呼ぶのだった。
納屋に閉じ込められた男が収容所から出て来る。どうやら何年も閉じ込められていたらしい。男が何とか乗り込んだ電車には医者の姿があった。医者は頭にコップを乗せ、電車がカーブを曲がっても水を零さないでいられるか賭けに興じ始める。

ユダヤ人医師がソ連高官の暗殺を謀ったとする流言「医師団陰謀事件」とスターリンの死を基にした作品。題名はスターリンの死を知った側近ベリヤが勝利感を隠そうともせず放った言葉だという。最後に登場する医者はマフィアのボスになっており、これら一連の出来事が今日のロシアが抱える諸問題の根源である事を示唆しているという。こういった説明は映画には無く、せいぜい上記のような出来事を知るのが精一杯だった。

フルスタリョフ、車を! [DVD]

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  • 『わが友イワン・ラプシン』

1980年代、孫がいる年老いた語り手により、1930年代のある男の数年間が語られる。
無骨な刑事ラプシンは共同生活を送っており、舞台女優ナターシャに出会う。娼婦を演じるので役作りの為に話を聴きたいとナターシャが警察署を訪れればその場を設け優遇する。その後友人である記者ハーニンがやってくる。ラプシンはナターシャに愛を告白するも、ハーニンが好きなのだという。一方、ハーニンは妻を失い精神的に不安定なのか自殺を試みようとしたところをラプシンが喝破して止める。ラプシンは脱獄囚による殺人事件を追う中、とうとう犯人を追い詰める。しかし取材の為に同伴していたハーニンが刺されてしまう。友人の負傷に激情を露わにしたラプシンは犯人を容赦無く射殺してしまう。
記者ハーニンがモスクワに向かう為、ラプシンとナターシャが見送りにやってくる。ハーニンはラプシンにナターシャへの好意をなぜ伝えてくれなかったのかと言い、その場を去る。ハーニンが居なくなるとナターシャはハーニンに振られたと語る。ラプシンは憮然とそれを聞き何も言わない。ナターシャは「上手くいかないものね」と言いその場で別れてしまう。ラプシンは共同生活を送る仲間に「今度昇進試験を受けるのだ」と語る。

1930年代はスターリンによる恐怖政治が敷かれた時代だという。スターリンの側近No.2であるセルゲイ=キーロフの肖像が作品に何度か登場するらしいのだが、彼の暗殺を契機に粛清が本格化しており、登場人物たちが今後粛清に遭う事を示唆しているというのだから驚いてしまう。またノーベル文学賞を辞退したボリス=パステルナークの精神を体現した作品だと監督は語っている。個人的には夜半ナターシャに会いに窓から部屋に入る中年ラプシンの姿がどうにも滑稽で印象深かった。

わが友イワン・ラプシン アレクセイ・ゲルマン監督 [DVD]

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2015年12月21日~2015年12月27日

駅に着いて定期券を忘れた事に気がつく。全く自分には呆れるしかない。金が惜しければ遅刻しても良かったのだと後になって気がついた。

割と単価の高い喫茶店で若い男女が語り合う姿を見掛ける。

クリスマスイブの朧月は何やら大きく見えた。

駅構内、エスカレーターで独り泣く若い女性を見掛けた。こんな日に何があったと言うのだろう。

パプリカをオーブンで焼いたところ、非常に美味い。また最近は紅茶味の豆乳にはまっている。

イエスが無花果の実を食べようとして木に向かうも何も実がなっていない事を知ると枯らしてしまう話がある。どう見ても腹立ち紛れの行動に思える。そう考えると面白い。そんな事を考えながら今週を過ごした為、商業主義的なクリスマスから一味違う生活が出来たのではとちょっと得意になっている。勿論、冗談である。

モスクワ妄想倶楽部

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、中沢敦夫訳『モスクワ妄想倶楽部』を読んだ。

モスクワ在住の作家は所属する作家倶楽部から原稿を幾つか持って研究センターに行くよう命じられていた。研究センターでは何やら作家の原稿に関する研究が行われているらしい。科学技術に貢献すべく重い腰を挙げて外出すると、同じマンションに暮らす友人が病院に連れ出されそうになっている。友人は特別な薬を取って来て欲しいと言い、仕方無くある施設を訊ねるものの薬を手に入れられない。仕方無く病院に赴くと友人は薬の事を忘れるようにと喚くばかりだった。それから作家は何者かに見張られている気配を察するのだが…。
他方、作家は問題の研究センターに赴くと男と機械に迎えられる。男によれば機械はそのテキストの読者の数を示すのだという。作家は自らが書き続けて来た原稿「青ファイル」の行く末について考え始めていた。そしてふと男の正体が「巨匠とマルガリータ」の作者であるブルガーコフである事に気がつく。倶楽部で男を見つけた作家は彼と青ファイルの行く末について語る。そして男は見せた事も無い青ファイルの一節を諳んじて見せる。作家は青ファイルのまだ完成していない何百頁を思い、倶楽部のレストランで訳も判らず幸福になりながら食事を注文をするのだった。

モスクワ在中の作家はアルカジー=ストルガツキーがモデルとなっているようだ。物語前半の薬の件は「スプーン五杯の霊薬」の筋書きをなぞったものである。度々言及される「青ファイル」は執筆されていたものの、当時発表されていなかったストルガツキー兄弟の「滅びの都」を指す。そして研究センターで出会う男は、演劇作品や小説を執筆するも大半を発表出来ず、または直ぐに打ち切られてしまい生涯を終えたブルガーコフである。ペレストロイカグラスノスチ以前に於いて、作品が発表出来るか否かは一つの問題であったろう事は想像に難くなく、実際ストルガツキー兄弟は作品が発表出来ない時期があったと言う。作家とブルガーコフの対決は本書でもっとも読み応えがある部分である。また訳者が指摘している通り、作家倶楽部に併設されたレストランの薀蓄等は「巨匠とマルガリータ」を意識したものとなっており、ブルガーコフ及び「巨匠とマルガリータ」へのオマージュとなっている。

本書の原題は「びっこな運命」であり、作家・作品の運命を表したものとなっている。また「みにくい白鳥」と組み合わせて長篇として作品は完成されており、その長編の章立ては訳者あとがきにて記載されている。

本書で作家に深見龍なる日本人から手紙が届いている。これはストルガツキー兄弟の作品を邦訳していた深見弾を指している事は明らかだ。更にストルガツキー兄弟の作品を読み進めたところ「波が風を消す」にてフカミゼーションなる言葉を見つけた。深見弾ストルガツキー兄弟に多大な影響を与えていたのだと感慨深い思いがした。

モスクワ妄想倶楽部

モスクワ妄想倶楽部

2015年12月14日~2015年12月20日

カール=ルイスが世界で一番脚が早かった頃、彼の名がその代名詞だった。そんな事を思い出した。

コンビニのレジの前で財布を忘れた事に気がつく。全く自分には呆れるしかない。

天冥の標Ⅸ ヒトであるヒトとないヒトと PART1 を読み終える。役者は揃い、一同が同じ場に相見える為の舞台が出来上がりつつある。種が種として生存する為の多様性の必要と、事実多様性を獲得して来た様が描かれているのが感慨深い。

暇を持て余したので、修羅の門修羅の刻、総員玉砕せよ!を読み直した。ついでに何冊かの漫画を古本屋に売ったのだが百五十円にもならなかった。

みにくい白鳥

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、中沢敦夫訳『みにくい白鳥』を読んだ。

雨が降り止む様子は無い。作家ヴィクトルは娘が大人のように話している事に気がつく。妻によれば娘は濡れ男のところに出入りするようになったという。濡れ男について余り街の人々は知らない。伝染病だという話もあったが憶測の域は出ず、街の外れの病院に収容されている。偶然、ヴィクトルは濡れ男が襲われているところに遭遇し興味を持つようになる。そんな折、作家に子どもたちから講演の依頼が届く。質疑応答で子どもたちは作家の考えや既存の価値観について疑問が示してみせる。そして子どもたちは濡れ男が住む収容所に身を寄せ戻らなくなる。親たちは子どもを取り返すべく収容所に集まり、また政府も濡れ男の弾圧を始めるのだが…。

本書では、未来を託されるべき存在である子どもたちが、過去の遺産や思想を受け継がないとはっきりと示す。この考えには衝撃を受けた。そして頭に過ぎったのは、過去の様々な文化を学び受け継ぎながら戒めているはずの過去の汚濁もまた継承してしまい、発露するきっかけを与えている、そんな事だった。

雨男は食料より本を読まなければ生きていけないらしい。情報生命体的な人の突然変異なのだろうか。

本書は単独で発表されたものだが、その後ストルガツキー兄弟は『そろそろ登れカタツムリ』と同様、『モスクワ妄想倶楽部(原題「びっこな運命」』と合わせて一つの長篇として発表している。本書はまだその長篇が未発表だった為、単独で刊行したと訳者あとがきにある。

みにくい白鳥

みにくい白鳥

2015年12月7日~2015年12月13日

十二月のイルミネーションを家に飾る親子を見掛ける。この輝きは必要とする人たちだけに用意された物なのだと腑に落ちた。

電車に乗ろうと駅に赴くと電光掲示板には電車の遅延情報が流れて行く。「~線は~駅で起きた人身事故により」路線は一つでは無いらしい。今日は何かしら支払いやら締切が設けられた日なのだろうか、また人の死が何かしらの出来事として感じられるのが駅かと背筋が寒くなった。しかしよくよく考えてみれば忘年会シーズンでもあり、酔った勢い線路に落ちてしまっただけかもしれない。もちろんそれもまた悲劇である事には変わりない。駅のホームで小便を垂れ流し、電車が近づく音に誘われ、鋭いブレーキ音と共に身は弾け、四肢は轢断される。最後の記憶は視界に散った激しい火花だろうか、そんな想像をした。

巨匠とマルガリータやらマチネの終わりにを読んでいると聖書の知識が求められる事が多く、購入して放置していた文語訳聖書を手に取ってみたのだが、やはり文語は格調と共に敷居が高かった。仕方無く口語訳を読み進める事にした。

仕事終わりに友人と日本酒を飲みダーツをした。友人から簡単な手ほどきを受けて的に向ったが、酔いがまわって力が抜けている為か、今回は割と的に刺さった。

目覚めると友人からメールが届いていた。相変わらず急な呼び出しだった。友人行きつけのジャズ喫茶で近況を聞いたところ、色々と考える事も多いようだったが、物事を決め兼ねているという話しているなか、「川の流れのようにって良い歌詞だよね。」等と言うものだから吹き出してしまった。川は流れても、流れの中で決断した事が良い方向に向かえばと思う。

2015年11月30日~2015年12月6日

椎名誠について調べていると、ネット上に公式の文学館があり、目黒考二と共に全著作を振り返るという企画があった。まずSF三部作及び読んだ記憶のある私小説について読んでいった。著者自身、忘れている作品があったりするのはご愛嬌だが、旧知の間柄の二人の掛け合いがなかなか面白く、結局読むのを止められなくなった。この企画でも触れられているが、教科書に掲載されていたヤドカリ探検隊という短編があり、おそらく椎名誠の初めて読んだ作品にはなりそうだった。ちなみにこれは書き下ろしの為、収録された単行本は無さそうだった。また目黒考二がこの企画の中で提案しているのが、武装島田倉庫の世界観を持つ作品、通称「北政府」ものの作品を集めた、続・武装島田倉庫の刊行である。著者は否定的な態度を取っているのだが、ここは目黒考二を支持したい。

背広を着た男性が牛乳パック五つ、そして青海苔を買い物かごに入れ精算していた。また後日だったか、他の男性が一つの商品を大量に買っていたのを見た。そういえば、ボジョレーヌーボー解禁日に大量に買い込んでいる男性を見掛けた事もあった。大量に買い込む姿は意図が見えないと少し不気味ではある。

巨匠とマルガリータを読んだ。貪るように夢中になって頁を進めた、幸せな時間だった。

2015年11月23日~2015年11月29日

掃除をしたのだが一向に終わる気配が無い。台所を主に取り掛かったのだが、長年住み暮らした生活感は消えなかった。

とんかつ屋で熱燗で日本酒を飲む。通しで味噌田楽とこんにゃくが出る。ラジオから流れるのはのど自慢だがよく鐘が鳴る。参加者の嬉々とした声に女将が笑い、大将は「今日はよく鐘が鳴るね。」と応える。

昼下がりの喫茶店にはランチメニューのカレーを食べに多くの人が訪れる。若い男性の手元にカレーがあり、真向かいに座る三十代後半の女性は男性の言葉に頷いている。幾分か歳の離れた組み合わせは、男女の関係と言い切るのが難しかった。隣に座る二人組の男性は、キングクリムゾンが来日する事を話しながらスマートフォンを覗き込んでいる。「ロバート=フリップも来るのか。ちょっと興味あるなぁ。」「もうチケット売り切れてるよ。追加公演も決まったらしいけど。」「ロバート=フリップならギターを弾き遅れる事は無いのかな。イエスみたいに。」二人が笑いあっているとコーヒーが届く。「灰皿必要ですか?」と尋ねる店主に「煙草吸っても良いんですか?」と一人が尋ね返す。「勿論ですよ。」机に置かれた灰皿を手元に取り寄せるものの、もう一人は「俺はまだ遠慮しておく。」と隣の男女に気遣いを見せる。そう言われる前に煙草に火を点けた男性は手に持った煙草を廊下の方に向ける。馴染みの客なのだろう、CDを持ち込んだ中年の男性がステレオをいじり始めた。流れる音楽は悪くは無かったが、当たり障りが無いとも言えた。隣に座った、やはり常連客に「ジャケットが良いでしょう。ジャケ買いなんだ。」と声を掛ける。新たに親子連れ、女性客が入店する。「私、寅さんって苦手なのよね。文学座だっけ?あそこの俳優ってなんか大袈裟で。」「うーん、たぶん寅さんに自然なものって求めて無いと思う。」「そうね、確かに型にはまったものとして観ているわ。」そんな会話がカウンター席で繰り広げられるなか、また新たな常連客が店に顔を出していく。妻との待ち合わせに煙草を吸う中年の男性、新たな彼氏を連れてやって来た女性。男女、親子連れ、女性客、二人組の男性は知らぬ間に店から消え、常連客だけが店に残った。

店内では他人に配慮するよう求める但し書きがある喫茶店。客の声は密やかに、もしくは黙るしか無い。

母親に抱かれた首の座らない赤ん坊が首を仰け反らせて大きな瞳で俯向く大人を覗き込んで行く。

古本屋に寄り書棚を眺めるものの、どうにも気分が乗らず、そのまま店へ出た。一駅歩いてみたが、マフラーをしてこなかった事が悔やまれた。

雨で水かさが増した川が落葉を運んでいる。

何もやる気が起こらず布団のなかにいると友人から連絡があった。天ぷら油でボヤを起こしたらしい。話を聞く限り大した事は無さそうだったが、送られて来た写真を見ると修理が必要な焦げ具合だった。本人は今後の手続きの煩わしさを考え意気消沈しているようだが、どこか他人事とも感じているようだった。深刻になり過ぎる事も厄介なのだから、こういう態度もまた必要なのかもしれない。

一九四八年から一九五三年まで当時の文部省が教科書として発行していた民主主義なる本を読み終えた。本書はGHQの指示で作成され、法哲学者である尾高朝雄が編纂したという。社会学者西田亮介が本書について取り上げており興味を持ったのだが、なるほど戦後間も無い日本に民主主義を根付かせようとする意気込みが文章の端々から感じられとても新鮮だった。扱っている内容もかなり広範なものとなっており、今でも全く通用する内容と思われた。

そろそろ登れカタツムリ

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『そろそろ登れカタツムリ』を読んだ。

森は深く広く誰も何も理解出来ずにそこにある。森に建てられた研究所を舞台にしたペーレツ編と森でさまよい暮らすカンジート編で本書は構成されている。実際本書が発表された当時、ペーレツ編とカンジート編は別個の作品だった。また発禁の憂き目や外国での無断出版等の問題でそもそも作品として発表される場が無く、ペレストロイカの後、一つの作品として発表されるに至ったという。

ペーレツは枕草子を題材にした「平安後期の女性の詩歌にみられる文体とリズムの特徴」というテーマを持った研究者らしい。彼は森に入る為に研究所を訪れた。しかし森に入る事は許されず、お役所仕事に従事している。滞在許可が切れ、研究所を離れようとしても引き戻されてしまう。所長に直談判しようにも誰も所長を見たものはいない。皆、研究所の不文律に支配され、そこから逃れる事が出来ないでいる。
一方、三年前に森にヘリコプターで入り消息を断ったカンジートは、研究所での暮らしを忘れてしまい、森の集落で暮らしている。森には集落が幾つか有りそこで人々が原始的に暮らしているらしい。彼らは、「死体」なる動くでくの坊や野盗に怯えて暮らしている。カンジートは森を抜けだそうとするのだが、気がつくとその決意自体を忘れてしまう。森を抜け出すにはそれなりの準備がいるらしい。しかしまた準備自体を忘れてしまう。やっと森へ出掛けるものの、野盗たちに襲われ計画はご破産になる。妻と共に森を駆け抜けると妻の母親たちが姿を現し、男は必要が無いのだと言う…。

ペーレツは研究所の何かに支配され途方にくれ、カンジートはただ森を警戒しながら歩いている。死体やら水の玉が森を跋扈し、誰もそれが何なのか判らない。カンジート編に登場する森の怪しげな住人たちの姿は、椎名誠のヘンテコSF的な要素があり楽しめなくも無い。官僚主義、人類とは別個の生態系ー未知との接触をモチーフにした不条理な物語という事になるのだろうか?しかしそれでは余りに月並みで、それだけの内容だとは思えない複雑さがこの物語にはある。尚、本書の題名は小林一茶の俳句「かたつむり、そろそろ登れ 富士の山」から取られており、冒頭に掲げられている。

2015年11月16日~2015年11月22日

中年の男性がスマートフォンでアプリを起動させて「うんち」と入力して送信するのを垣間見てしまった。ちょっとした事でも簡単にやり取り出来る訳だから勿論内容もどうにでもなり得てしまう。

Sugadairo piano solo at velvetsun を聴いている。ピアノの旋律は自由で晴れやかにも関わらず憂鬱な気分を喚起させる。

「グレイトォー」トラのトニー=タイガーが叫ぶ。シリアルを食べただけなのに大袈裟な印象は否めない。しかし常にスポンサーを配慮するというプロ意識が彼にはあった。例えば彼にスポンサーがついてから、犬歯を削いでシリアルをよく噛める様にしたというエピソードは有名な話ではある。そんなトニーは棚に並んだシリアルで一日の運勢を占うのだという。「まあ、占いなんてものはオマケさ。身体が資本だよ。俺の鍛え上げられた胸筋を感じてくれ。」そう言うとトニーは毛に覆われた胸筋をビクンと動かした。しかし何故アメリカに移住したのだろう?「俺は菜食主義者なのさ、君はジャングル大帝を知っているだろう?理性ある動物は仲間をかみ殺すなんて出来ないのさ。あとは、自然に打ち勝つ為に、種を残そうとする性欲にも打ち勝つ必要があった。動物が何十年も月の光だけを浴びて人に化ける努力は未だにアジアで見られるけども、その実は本能をコントロールし理性を手に入れる事なのさ。それにはシリアルだよ、砂糖が性欲を掻き立てるという話もあるけども、これは一つの贅沢だし、逆に言えば欲求の喚起に対する内なる闘いに勝利する事が義務付けられるって寸法さ。」何に信仰を持っているのですか、そう尋ねようとした時、トニーが全身の毛を逆立てたのが判った。どうやら目の前に飛ぶ小蝿を追いかけようという本能を抑えているようだ。トニーさん、別段僕の前ではそう頑張らなくても良いんですよ、自然に行きましょう。「いやいや、私は人類に初めて接触図った理性あるトラだ。人間は私を見てトラの価値を図ろうとするだろう。私はトラを、それだけじゃない、動物の代表として、常に自然に打ち勝った理性あるトラじゃなければならないんだ。」それはご苦労様です。その為に人助けをしているんですね。「そうさ、命を奪うのでは無く助ける。こんな人道的なトラがいただろうか。早く私のように進化した同胞が更に生まれる事を祈っているよ。」トニーはそういうと削ぎ落とした剣歯を光らせ「グレイトォー」と咆哮するかのように叫んだ。

雨上がりの蒸し暑さと靄が掛かったコンクリートの街並みに額に汗を浮かべるしか為す術が無い。

「無駄な優しさなんて無いですよ。そんな事ばかり言ってると誰にも優しくされなくなりますよ。」果たしてそうだろうか。しかし素朴でありながら代えがたい説得力があると思った。

「グレイトォー‼︎」大きな声が聞こえた。朝から何事かとリビングに赴くとそこにはトラの着ぐるみを着た人物がテーブルでシリアルを食べていた。唐突な出来事に言葉も出ない。トラは俺に気がつくと当たり前のようにこう言った。「朝から大きな声を出してすまない。しかしシリアルを食べると力がみなぎってついつい声が出るんだよ。それにスポンサーもいるしな。俺はトニー=タイガー、君は大谷義博で間違いないな。」俺はやっと声を出して言った。「どうやって部屋に入った。人様の家で何をやっている?」怒声に顔を歪ませ、そして微笑を浮かべるとトラは言った。「繰り返しになるが俺はトニー=タイガー、部屋には玄関から上がらせて貰ったよ。鍵は掛かっていたが、シリアルのあるところ、俺に入れない場所は無い。コーンフロストが無くとも君の家にはグラノーラがあった訳さ。勿論君に用があって訪ねた。泥棒でもヤクザでも無い。何かといえば人語を解するトラ、観念が実体化したものらしいのだが、その辺りは詳しく知らない。シリアルを勝手に頂いているが、まあ、これはお通しくらいだと思って許して欲しい…。たぶん今の説明で君は納得していないと思う。しかし説明しなくても良い事敢えて説明しているって事に誠実さを見出して欲しい。さあ、そこに立っていないで座ったらどうだろう?」

アルカジー&ボリス=ストルガツキー「蟻塚の中のかぶと虫」「波が風を消す」を読み終える。「神々はつらい」「地獄から来た青年」で登場した惑星アルカナル、惑星ギガンダ及びコルネイが言及され思わずニヤリとする。発展途上の惑星に干渉する者は異文明接触委員会に所属する「進歩官(プログレッサー)」と言われ、最終的には超文明を持つに至った地球でさえ遍歴者と呼ばれる超超文明の進歩官たちの干渉を受けている可能性が追求され、物語は思わぬ方向を指し示して終わる。

ジムのモニターにて世界野球日本対メキシコを眺める。やたら日本にホームランが出ており、あまり緊迫感は無い。サウナに移動して音声付きで眺めたところによれば、メキシコのエラーが無ければ、ホームランも無かったらしい。

巨匠とマルガリータでも読もうかと本棚から取り出して訳者解説や著者略歴を眺めていたところで友人から連絡が入り対応している内に寝てしまった。

「さあ、大谷君、俺がここに居るのは君を助ける為さ。残念ながら君の周りには誰一人として助けてくれる者はいない。そしてなぜ君が傷ついているのかと思えば、奥さんとの離婚のせいだ。まずこの現状の認識に間違い無いだろうか?」確かに間違いは無かった。しかし一体どこからそんな事を知ったのだろう。「ここからが本題だ。君は奥さんとの離婚で参っている。わざわざ高い金を払って探偵まで使って浮気の証拠まで持っていると言うのに慰謝料の請求もする事なく持て余している。端的に言って君に突きつけられた現実は君を深く損ねた。そしてなし崩し的に君は今まで危なげなく生きて来た人生を踏み外しつつある。どうだろう?」何も言う事は無かった。しかし何故そんな事まで知っているのだろう。これはどうにもおかしい事態だ。「その沈黙は現状に間違い無いと言う事だろうか。まあ実際君の考えている事は全てお見通しなのさ。たかだか三十分そこらだが、君を上手く人生の正道に軌道修正して見せるさ。」余計な御世話というものだ。しかし何も言葉が出ない。「君が離婚で傷ついたのよく判る。何より君自身後悔している事も知っている。ちょっとした気持ちの行き違いだ、それが積み重なってしまった。君は途中それに気がついていたのに何もしなかった。そして彼女を寄る辺無いところまで追い詰めてしまった。君の後悔の出発点はここからだろうと思う。しかし、それは仕方無い事だったとも言える。何だろう、大切な人だからこそ、踏み込むべきか見守るべきか、判断は難しいものだ。君はそれを感じ取って気遣っただけだ。そしてそれに奥さんだって気がついていたさ。しかしどちらも態度を硬化させてしまった。そういった気遣いもまた、何か煩わしさとか押しつけがましさという雰囲気になって二人の間を遠ざけてしまった。簡単に言えば、どちらかが歩み寄るべきだった。二人はそれぞれその時々に演じる役割を間違えてしまっただけさ、だからチグハグになってしまった。でも役割にはある意味徹していたんだ、それがどうにも固定的だった事が問題だ。それが結論なんだと思う。申し訳ない、後付けな上に男女の問題だ、酷く具体的に欠けて抽象的な説明になっているかもしれない。しかし君なら理解していると思う。まあ、君が漠然と感じている事を言葉にしているだけなんだ。これは一種のカウンセリングみたいなものさ。次は処方箋だ。ここからは私の意見さ。余りにも簡単な事なんだ。それは失敗した自分、この五年間の結婚生活を送った、妻と共に居た自分を否定するなという事だ。君はこの五年間を無視して新たな生活も出来るかもしれない。しかしその五年間を生きた自分の影に折々苦しむ事になる。君はこの五年間を生きた自分に腹を立てつつも救ってやる必要がある。過去の自分に囚われるのでも無く、無視するのでも無く付き合ってやる、誰か友人を励ますように、これからの人生を楽しむ為に。」トニーはそう話すと一息ついて付け足した。「私がここに現れてしまったのは君だけの用じゃない。離婚した君の奥さんもまた傷ついている。そしてどこか気持ちの片隅で君を案じていたという事さ。まあ、君と違って立ち直りは早かったようだけどね。」シリアルの最後の一口をスプーンで啜るとトニーは身震いしながら「グレイトォー‼︎」と大きな声を挙げた。「それでは失礼するよ。時間を取らせて悪かった。健闘を祈る。」トニーは玄関の方へ向かった。そして扉が閉まる音が聞こえた。

2015年11月9日~2015年11月15日

雨が降っている。おかげで蒸し暑く、電車の中で額に汗を流している。汗、労働の対価、輝き。

なんてこった、俺が本を読んでいる間にあいつは女と寝ていた。全く取り返しがつかない事になってしまった。

なんてこった、俺が女と寝ている間にあいつは本を読んでいた。全く取り返しがつかない事になってしまった。

満員電車に乗り込むと窓が開いている。蒸し暑さのなかの清涼感。

食事をしてシャワーを浴びてベッドの中に入れば素晴らしい明日がやってる。で、それで?明日がなんだって言うんだ、星の自転と惑星の運動は当然の帰結じゃないか、しかも俺が明日を迎える為にじゃないんだ、ただ運動、宇宙の、自然の法則に従って、誰の為とも無くやって来る。それに便乗してるだけなのさ。しかもだ、あろう事かそんな科学の結実なんかも自分の経験や考えと乖離していると認めない連中がいるんだから呆れたもんさ、経験なんかがどうしたっていうんだ?大抵忘れているんじゃないか、忘却の彼方さ。そんな曖昧な経験とやらと思考と論理的な帰結が同じ価値だって?「経験的に」だとか「常識的に」、そういった台詞で論理なんて吹っ飛ぶのを何度も見てきたよ。論理的で柔軟な考え方が出来る方ってのはこれがよく判っている奴さ。悪い冗談だ。そういう時の決め台詞は「これが現実なんだ」ってさ。判るよ、これが両立するってのは人としてよく出来てると思うよ、ほんとうに。つまり、都合の良い部分、論理っていうより、便利な道具なら誰もが現実って認められんだ。我、道具を使う、ゆえに我と道具有りだ。そうやって考えると色々納得が行くよ、つまり都合が良いか悪いかが全てさ、論理なんてありゃしないんだ、納得しないなら無視すれば良い、言いたい事だけ言ってあとはケチだけつければ良い。いやぁ、こう言いながらどの口が言うんだよって思うね。

黒人男性が腰を叩いてリズムを取りながら歩いていた。

アルカジー&ボリス=ストルガツキーの世界終末十億年前を読み終える。やはり現代のお伽話よりこちらの方が断然好みである。

注文していたワインが届いた。一箱分、つまり六本である。とりあえず新酒では無くスパークリングワインから開けた。最高だ。

雨ばかり降っている。眠りに着けば現実の裏返しの願望が披露される。嬉しいやら悲しいやら。

アルカジー&ボリス=ストルガツキーの収容所惑星を読み終える。どうやらこの物語は蟻塚の中のカブト虫、波が風を消すに続く三部作であり、神々はつらい、地獄から来た青年と同様、超文明を持った人類が発展途中にある惑星に干渉する物語であり、先に読んだ二作より組織的に人類が惑星に干渉している様が描写されていた。どちらが先に描かれたものかは確認していないが、この作家のシリーズものだと言う事なのだろう。

甲州の辛口と甘口を開けたが美味い。基本的に辛口が仕様だと聞いていたが甘口もあるらしい。馬鹿舌ではどちらも美味いとしか言いようが無い。

ジムに出掛ける。外に出ると昨日から降っていた雨が止んだところだった。電車に乗り込み座席に腰を下ろすと横で子どもが父親と楽しそうにじゃんけんを始め、母親と更に小さい子どもがそれを笑いながら見守っている。果たしてこういった光景の当事者になる事はあるのだろうか。そんな事を考え、電車を降り駅を出ると北西の空に晴れ間が広がっていた。

ジムのモニターでブラタモリを眺める。今回のテーマは小樽だった。北海道に仕事で行った事がある程度で観光地には縁が無い。

外に出ると淡い光に街が染まっている。特段面白くも無い毎日は寝て忘れようと思った。

2015年11月2日~2015年11月8日

沖縄。山の中腹に温泉が湧いたという。老人たちがぶつくさ言いながら温泉の周りにたむろしていた。温泉に向かわなければ、境内で人力車を見つけ、それに乗り込み鳥居を潜り抜ける。近くに居た守衛は「境内で運転するとは。」と呟いた。

目覚めると外から雨音が聞こえた。

駅前で男性が車の後部座席から降りた。忘れ物に気が付き振り返るも、車は既に発車していた。車を降りる際、確認しなかったのだろうかと思いながら、改札前で財布と定期券を忘れた事に気がついた。自宅を出る前に確認しなかったのだ。

少し風はあったものの陽射しは暖かかった。銀行に家賃を振り込みがてら散歩する事にした。

公園に向かう。トラックでの練習を終えたウインドブレーカーに着込んだ若者たちとすれ違った。

小埜涼子の Alternate Flash Heads を聴いている。これも購読しているブログで知ったものだが、九十九の数秒から一分程のトラックが収録されているもので、聴き方は一から九十九まで順に聴くのも良し、ランダム再生で九十九の九十九乗という殆ど違う曲順で聴く事も可能になっている。ランダム再生でアルバムリピートにすれば、激しく息を乱した永遠とか無限とか言った存在を意識してしまう。

人の出入りの無い公園で猫たちが思いのままに過ごしている。

鳩が逃げて行く。

若い男女が横を通り過ぎて行く。

ランナーが横を通り過ぎて行く。

若い男女と小さな子どもがベンチに座り昼食を取っている。

校庭で部活動に勤しむ高校生を見掛ける。

ベンチに座り談笑する中年の女性や酒盛を始めた老人たちを見掛ける。

鳩に餌をやる老人を見掛ける。

吉田野乃子を聴き、師事しているというジョン=ゾーンの Angelus Novus を改めて聴いた。調べてみると一九九〇年代の作品になり、オーケストラによる現代音楽が展開されている。題名はパウル=クレーの新しい天使を意識したものかもしれない。

子どもがおもむろに走り出し、自転車が向こうからやってきた事に気がついた母親は慌てて子どもを取り押さえる。耳許で母親は何か言うものの、子どもはまるで聴く耳をもたず、手足はばたつかせている。

新築されたマンションを見て周る。工事が始まったばかりの場所の柵には杭打ち工事中とある。また別の場所では、各棟の仮設物に囲まれたコンクリートから掘削機が音を立て、誘導員が棟から棟を自転車で移動していた。

自宅にて瓶ビールを開けて飲む。酔いは意外にも回ってこない。ワインであれば新酒が出荷される時期でもある。

目の前に高校生の男女が立っている。ギターを抱えたニキビ面の男の子と制服とあいまって地味な色合いに染まった女の子は笑顔で何やら話している。男の子の首から下がった自宅の鍵や女の子の履く白いソックスは、二人のあどけなさを物語るようで気恥ずかしくなった。

はじめの一歩を読んだところ、最後の最後で逆転劇が用意されていた。

電気シェーバー片手に歩いている中年の男性を見掛けた。

「で、結局殺れなかった。そういう事だろう。」脳波計が激しく揺れ、端末から機械的な音声が流れ始めた。「サイショカラブソウシテイルカノウセイヲ伝えナカッタのはソチラダロう。」端末が認識精度を上げ始めた。「シカシ奴ハシロウトだ。ケンジュウデヨイところをワザワザシュリュウダンまで投ゲテキタ。ジッセン経験は無いんだろう?」「公式には無いらしい。しかし、まあ実際のところはわからんよ。東京で参戦していたかもしれない。お前さんと同じように。」この言葉を聞くと端末は沈黙を守った。二〇三六年、憲法改正とこれに伴う自衛隊から日本軍への再編成が全国で反対集会が繰り広げられるなか決議された。これに伴い革新勢力と一部の自衛隊は連合組織として共同声明を発表、同時刻、上野駅・東京駅・品川駅・新宿駅で爆発が起こった。政府はこれらをテロと呼び、連合組織の関与をほのめかした。これに対し連合組織は政府を非難したものの、関与自体は否定出来なかった。実際、組織としてまとまりに欠けた連合組織の一部が爆発事件を関与した事を表明した。慌てた連合組織は先鋭化グループとの分離を宣言する一方、先鋭化グループは武力闘争の継続を宣言、一部の自衛隊はこれに同調し武力行使に出た。一部の自衛隊は基地内部で鎮圧されたが、既に緊急非常事態が宣言された首都に潜入していた自衛隊員と先鋭化グループは、事実上の日本軍と約二週間の戦いを繰り広げた。勿論、戦力差は明らかで大規模戦闘は初日のみ、殆どは離散したテロリストの追跡に費やされた。一方、自衛隊内部では先鋭化グループの関与を疑われた隊員の私刑や自衛隊各基地内部での戦闘、これらから逃れる為の隊員の大量離脱が起きた。第三次秘密保護法を盾に政府は正式にその数を明らかにしておらず、またメディアも自衛隊から日本軍への再編の影響もあって正確な数字を示せなかったものの、その数は数千人に上ると言われていた。今回の標的である牧島成吾も公式な記録は自衛隊員だったニ〇三六年から消えており、間違い無くこれらのテロ、通称「十一月事件」で獣道に人生を踏み外した事が伺えた。参考資料では革新勢力への関与が仄めかされている程度だったが、わざわざ日本軍が非正式に与党後援組織の非公認自警団に殺害を依頼するのだから、足がつかないようにしなければならない理由があるはずだった。それを把握した上で日本軍に恩を売り、主導権を握らなければならない。この為に物件九十八号こと東京大規模戦闘でただ一人四肢損壊で生き残った男を見届け人として派遣したのだ。しかし結果はご覧の通り、暗殺者は殺され、見届け人は顔を弾き飛ばされ、予め身体に移植した脳を回収出来ただけだった。武装していたところをみれば、日本軍子飼いの非公式メンバーだった線が濃厚だろう。日本軍への裏切り、若しくは駒として切り捨てられたのか。どちらにしても、ただ殺す訳にはいかないというのが自警団の判断だった。

帰り道、ウインドウ越しに中年の男性と若い男女が二人で食事を取っているのを見掛ける。仕事付き合いか、それとも親密な関係なのか、端からは判りようが無い。

アルカジー&ボリス=ストルガツキーのトロイカ物語を読み終える。バージョンの異なる同タイトルの作品が二編収録されており、やっとストルガツキー兄弟の現代のお伽話から抜け出せる事になった。

寒くなって身動きを取りづらくなってしまった。結局一日中布団の中にいた。

重い腰を上げて友人が勤めるワイナリーの新酒の注文をした。とりあえず残り少ない今年に楽しみをつくる事が出来たと思う。

新たな本を開くと古本の為か栞が落ちた。手に取ると富士ゼロックスのもので若き日の松岡修造がサーブを打たんとしており「青春がしごとです。」とある。昔から熱かった訳である。

ジムのモニターにて全日本テニスシングル男子決勝添田豪対内山靖崇を眺める。内山の攻めのサーブ、粘りのラリーには驚かされるが、これに応えて添田も粘りを見せる。結果としてかなり見応えのある試合だった。優勝した内山に賜杯を渡す女性が、やけに品格が高いものの堅苦しい笑顔だった。調べてみると皇族である眞子内親王だった。続けてTOTOジャパンクラシックを眺める。最終ホールを十六アンダーで終えたアンジェラ=スタンフォード、アン=ソンジュ、李知姫のプレーオフ。アンジェラ=スタンフォードとアン=ソンジュは攻めのアプローチを見せたが、一枚上手だったのはアン=ソンジュだった。

小埜涼子の Undine を聴いている。一.五倍速タルカスの印象がどうしても強いのは十五分もある曲を見事な編曲で飽きさせず聴かせてくれるからだろう。あと早く演奏する事で曲が五分位短くなっている事も重要だ。どうしたって長ければ、集中に間隙が生じてしまうのだから。

地獄から来た青年

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『地獄から来た青年』を読んだ。

惑星ギガンダではアライ公国と帝国が血みどろの戦争を繰り広げていた。アライ公爵に忠誠を誓う公国特殊部隊ファイティング・キャットのガークは突破された前線にて守備につくものの、戦車に焼き出され炎に包まれる。
ガークが目覚めた先は地球だった。優れた文明を持つ地球人は、惑星ギガンダの隅々に地球人を送り込み、優れた人物を助け、また政治に介入しているのだという。ガークは彼らにたまたま助けられた一人だったのだ。
惑星ギガンダの干渉に携わるコルネイと共に地球で暮らすガーク。そこには全てあったが、ガークには何も無いに等しい場所だった。コルネイが公国と帝国の戦争を終結させるべく計画を進めるなか、ガークは地球文明に対して自らが全くの無力である事を悟り、また忠誠心をもて余し、兵士としてのやり場を失ってしまう。
コルネイに帰還を許されない為、ロボットを兵士として従え軍事教練して日々を過ごすなか、コルネイから公国と帝国の戦争が終結し、公爵が逃走した事を教えられる。またコルネイを尋ねたアライ人と偶然出会うも「人殺し。」と罵られる。コルネイとの口論のなか渡された書類には、公爵たちの生活振りや、罵られた青年が数学に才があり、地球人に助けらた事が報告書としてまとめられていた。
コルネイに引き合わされた軍人が地球人である事を喝破するガーク。それはギガンダの大科学者を救う偽装の準備だった。ガークは、地球文明の利器で作り上げた拳銃で自らを惑星ギガンダに連れて帰るようコルネイを脅すのだった。
戦争は終結したものの政治的混乱・経済の混乱・伝染病に苦しむ惑星ギガンダ。ガークはぬかるみの中で立ち往生している軍用救急ワゴン車を見つける。血清を運ぼうと必死になる軍医に地球人とその超文明の幻影が過るガーク。しかし彼は幻影を振り払いワゴンを力一杯に押しながら故郷に帰ってきたのだと思うのだった。

「神様はつらい」と同様、超文明を持つ地球人が発展途上の惑星に干渉を図る一連のシリーズものだった。神様はつらいが、中世の反動期の最中を思わせる惑星で知識人を救い出そうとする地球人を描いたものに対し、本書は第二次世界大戦を彷彿とさせる争乱の最中の惑星の叩き上げの特殊部隊員が、地球人が惑星に干渉し戦争を終結に導くのを茫漠と見守る姿が描かれている。また惑星の干渉に携わるコルネイの生活や家族との確執等が他の惑星の兵士の視線から描かれている点も面白い。

本書の訳者はクレジット上、深見弾となっているが邦訳途中に死去した為、弟子の大野典宏・大山博が作業を引き継ぎ、また訳文のチェックを矢野徹が行ったと追悼文及び訳者あとがきにかえてに記載されている。深見弾はストルガツキー兄弟の邦訳をほとんど担っているが、アルカジー=ストルガツキーは日本語を理解していたためか交流もあったらしい。「モスクワ妄想倶楽部」という作品では、深見弾がモデルとされる日本人が登場しており、ストルガツキー兄弟の作品を語る上で深見弾は唯の翻訳家という枠を越えている。現在、深見弾の邦訳作品の再販等では大野典宏が改訳及びチェックをしているようだ。

地獄から来た青年

地獄から来た青年

2015年10月26日~2015年11月1日

スエットに着替えパソコンを眺めていると首筋に何かが這っているようだった。半信半疑で首筋を二度叩くと、手の平にバラバラになった大きな蟻の死骸があった。思わず声を挙げるが、おそらく洗濯物を取り込んだ時、そのまま家に迎え入れたのだろう。

イスラム過激派から届いたビデオメッセージ。指導者は休戦を望み、その他の兵士たちは個人の特定を免れる為にガスマスクやら鉄仮面を帯び、傷ついた身体を晒していた。同情を誘う為の演出なのか、しかしその様相は得体のしれなさを感じさせ逆効果だった。

タオルケットと毛布では寒さから逃れる事は難しく、早朝に目を覚ましてしまう。外から銀杏のような匂いが届く。

鴨が川で身体を洗っている。

「超セレブ女性の日常サポート 高収入可能!」という貼紙を見掛ける。超セレブというのは、用法としては超兄貴とか、ウルトラマンとか、そんな言ったものだろうか。検索してみるとそれらしきサイトはあるものの、あくまで電話での対応という事らしい。「出会い系サイトではありません」との断りもある。思うにいまどきの超セレブは高齢で、色々と骨が折れるかもしれない。というような話をしていると同僚がネットで体験談を見つけたという。それを眺めてみたところ、全く面白い話では無かった。

満月だった。

小学校で教育実習を行っている。昼食は各クラスで給食を取る事になっていた。低学年のクラスに向かい教室に入るものの、担任は何も声を掛けてくれない。仕方無く空いている席に座ろうとするものの、「そこはユミちゃんの席だよ。」と児童にたしなめられてしまう。笑ってごまかし別の席に座に座り児童たちと話したところ、この後は児童たちが大切にしている丸い石に穴が空いたというので、その穴を防ぐべく樹脂を注入するのだという。果たしてこの石は何を意味するのか、答えは明かされない。

友人から電話があり近況について話した。とはいえ、さして代わり映えのしない毎日であり、報告する事は少なかった。

腹が減った。

農作業中に嵐に見舞われ、ビニールハウスに避難するのだが、しかし嵐は思いの外激しく、避難した皆でビニールを押さえるもののビニールで包まれてしまう。この為にビニールに空気を取り入れるよう穴を開けたのだ、リーダーらしき男が妻らしき女性にそう話している。気がつくと、その妻の膝の上で赤ん坊が大きな鳴き声を挙げ、女は顔を覗き込むのだった。

朝、雨が降った。

最後の一押しで満員電車に高校生が入り込んだ。高校生の腕には使い古したG-SHOCKが掛けられ、時刻が午前七時四十八分をまわった事を知らせる。

鏡の前で白髪を抜く。

お婆さんは朝早く山へ柴刈りに、その後は川へ洗濯に、こんなに忙しく何も起こらない昔話は無いし、お婆さんの退屈な日常など知ったところで胸は踊らず、話も弾まない。こんな事になったのは一月程遡る必要があった。いつも通り、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に向かった。お爺さんは山へ向かう時、川沿いに歩くのが常だった。昨日降った雨で少し水かさが増していた事に気が付かないお爺さんでは無い。何故ならお爺さんは柴刈りのプロフェッショナル、日本が誇る人物であり、国民栄誉賞受賞も今かと巷で叫ばれていた。これは毎日物語の要請に従い、雨の日も雪の日も柴刈りに向かっていた事が評価されての事だ。今日も柴を乾かす必要があるな、そんな事を考えていると、弘法も筆の誤り、ぬかるみに足を滑らせ、川に落ちてしまう。少年のころ川遊びは得意なお爺さんだっが、お爺さんという役目を長年演じ過ぎた為に、泳ぎ方を忘れ、そのまま溺れ死んでしまった。お爺さんは役目に忠実だった。それが評価されていた。しかしその為に命を落としてしまったのだ。皮肉な事である。他方、お婆さんは水かさが増して濁った水だと残念に思いながら、せっせと洗濯をしていた。すると川の上流からどんぶらこどんぶらこと何かが流れて来た事に気がついた。何度繰り返して来た事だろう、しかしあれは桃では無さそうだ。そういう時は何も無かった事にしなければならない。そういう決まりだった。しかし目の前を流れて来たのは柴刈りに向かったお爺さんだったものだから、慌てて腰まで川に浸かってお爺さんを引き上げた。既に事切れたお爺さんの膨れたお腹を押すと汚泥が口から溢れた。「可哀想に。」お婆さんは涙を流しながらお爺さんの瞼を閉じて、その死を悼んだのだった。その後、お爺さんは国民栄誉賞を受賞した。墓石には「柴刈りに生き、柴刈りの為に死んだお爺さん、ここに眠る。」とあり、墓前に柴が欠く事は無かったが、心無い者の悪戯により柴ごと燃やされ二度も荼毘に付されたりする内に、すっかり皆に忘れ去られてしまった。

床屋に行ったのだが、店主が趣味なのかテレビ東京の歌謡曲の番組を眺め始め、シャンソンのろくでなしやら森進一を真面目に聞いたのだが、退屈するというより新鮮な気分が多くを占めた。

曇天から陽が射し始めた。

帰り掛け、CDショップに寄るも目当てのものが見つからなかった。改札前の人波に仮装した若者を多く見掛けた。

吉田野乃子の Lotus を聴いている。ここ一年程、フリージャズを中心に扱ったブログを購読するようになり、そのなかでかなり好意的な評価を得ていたのがこの作品だった。自主制作という事で、本人にメールして購入したのだが、実際のところはSNS等で連絡して手に入れるようだ。昨今そういった環境から離れており、上記のブログで知れたのは幸いな事だった。送られて来た商品には自筆の送り状と父による勝手な全曲四行程の解説が付いており、解説にある家族に関する内容と相まって穏やかな気分になってしまうが、アルバム自体はイージーリスニングなものでは無い。師事しているのはネッド=ローゼンバーグ、ジョン=ゾーンだそうで、ネッド=ローゼンバーグは浅学故に知らないのだが、ジョン=ゾーンといえば前衛・多作な音楽家である。何度もアルバムを聴いているのだが、多重録音されたアルトサックスの反復と変調が何にも邪魔されずにただ聴ける事が非常に心地良く、日常に最適化されて狂った身体を解放してくれる。

ジムのモニターで西島秀俊が主演しているMOZUという映画の宣伝番組を眺める事になった。ドラマの枝葉末節まで読み込んだ人々がドラマの内容に関する問題に解答していた。

散歩に出掛ける。最近は半径五メートル程度のものしか眺める事が無く、遠くを眺める事が少なくなったと思う。枯葉が落ちた遊歩道を歩き、一部の紅葉を眺めたりした。公園の芝生で他愛なく遊ぶ若者、小さな子どもの一挙一動を嬉しそうに見守る家族、横を走り抜けるランナー。そういったものを見ながら、今の生活はどうにもなりそうにないと思った。